2004礼拝めっせーじ

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メッセージ2004


礼拝説教 2004-03-07『新しい時代に向かって』(申命記8章1-10節)
(イントロ)
 私たちの教会は昨年創立20周年を迎えました。淀橋教会が今年創立100周年なので、教会の歴史としてはこの教会はまだまだ若いと思います。しかし、人は一つの節目を迎えるとそこで落ち着いてしまう傾向があります。私たちは、今年から30周年を目指して新しい出発をします。その時に大切なことは、ここまで導いてくださった神様の働きを思い起こすことではないでしょうか。私たちは、自分たちの力だけでこの20年間の成長をとげることはできませんでした。教会が建てられるということは、究極的に考えると永遠の昔からすでに神様の計画の中に含まれていたと言えます。そして時が満ちて、群馬大学で学んでおられた石黒先生ご夫妻、吉住先生ご夫妻に神様が働きかけてくださり、北本という場所が選ばれました。それ以来20年あまりの間、肉眼では見えないものですが、つねに神様の手は働いていたのです。
 旧約聖書の時代、神様は繰り返してイスラエルの民に昔の神様の働きを思い起こすようにと勧めています。申命記の8章2節で「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。」と神様は命じておられます。神の働きを思い起こすことは、私たちの過去のことだけではなく、私たちの現在にも将来にも関係することです。
(1) 神の忍耐を思い起こす
 「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。」聖書では40という数字が繰り返し用いられていますが、いつも40が表すのは人の信仰が試される時であり、神様の忍耐が試される時です。モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出すという大きな施金を任される前に40年間ミデヤンの砂漠で神様の訓練を受けなければなりませんでした。私たちの主イエスも、神の子としての働きを始める前に40日間の誘惑を受けられました。イスラエルの民はエジプトを出た後、神様の奇跡を何度も目で見ていながら、少し苦しい状況に陥ると神と神が立てた指導者モーセに反抗をしたために、神のさばきを受けました。もっとも大きな反抗は、イスラエルの民が約束の地に入ろうとする時に起こりました。神様は、約束の国はいる前に、その国がどんな土地であるかを偵察するために12部族から一人ずつ代表を集めて、偵察部隊として送り出しました。約束の国に入って見ると、そこは確かに神様が言われたように果物や樹木が豊かに生えている素晴らしい土地でした。しかし、一つ問題だったのは、その地にすむ人々が非常に背が高く戦いに強そうだったのです。12人の偵察部隊がイスラエルの宿営地に戻って来ました。その時、12人のうちヨシュアとカレブは主がいつも共にいてくださるから、戦いに勝利出来ると言ったのですが、他の10人が絶対戦いに負けると言ったため、イスラエルの民は神様が約束の地に入れという命令に背いたのです。その結果、イスラエルの民は、すぐに約束の地に入れたはずなのに、神様のさばきを受けて40年もの間砂漠地帯を放浪することになりました。
 厳しい裁きですが、この裁きには目的がありました。2節の後半に「それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」と書かれている通りです。神様がイスラエルの民に試練を与えられたのは彼らの信仰を試すためでした。神様が私たちに求めておられるのは、神様の命令に従う心です。今年の教会のテーマ聖句は「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしたあなたの神を愛しなさい」という御言葉ですが、私たちの神様に対する愛はどのように現れるのでしょうか。主イエスはヨハネの福音書の14章で次のように言われました。「たしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」あなたはそのような愛を神様に表しておられますか。私たちの信仰は形だけのものになっていないでしょうか。礼拝を守る。聖書を読む。奉仕をする。献金をする。これらは皆、クリスチャンにとって大切なことです。しかし、これらのすべての行いは、私たちが神様の言葉にいつも喜んで従う心をもっていなければ意味がないのです。イスラエルの最初の王サウルは神様の言葉に逆らって犠牲をささげました。表面的に見ると彼の行為は宗教的で神を礼拝しているように見えましたが、彼には本当に神に従う心がなかったのです。
 また3節には「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」と書かれています。イスラエルの民は40年間荒野をさまよいました。その40年間、安息日以外すべての日に、神様はマナという不思議な食べ物をイスラエルの人々に与え続けました。荒野は砂漠です。オアシスから離れるとまったく命のない場所です。しかし、イスラエルの民は食べ物がなくて飢え死にすることはありませんでした。神様は、私たちが何よりも神に依り頼んで生きることを求めておられます。また、この言葉は、主イエスが荒野で悪魔の誘惑を受けられた時に語られた言葉でもあります。主イエスは、この言葉を通して、人が本当の意味で勝利の人生を生きるのは完全に神に信頼して生きることであることを教えられたのです。イエスの弟子ヨハネも言いました。「世に勝つ者とは誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか。」神様は40年の間忍耐をもってイスラエルの民を導き続けてくださいました。試練の時もありました。それは私たちが神を信頼して神に従う者として生きるために、神様が行われたことでした。(2) 神様の豊かさを思い返す
 4節に「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」と書かれています。40年の間の荒野での放浪は、イスラエルの民にとって厳しい時でした。信仰を試される時でした。しかし、その間ずっと、神様はイスラエルの民を守り続けてくださいました。さきほども言いましたように、神様は、イスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入るまで、毎日毎日マナという食べ物を与え続けてくださいました。マナだけでなく、イスラエルの民が肉を食べたいと言った時は、神様がうずらの大軍を連れて来たので、彼らは苦しくなるほど肉を食べることができました。また、40年の間、彼らが来ていた服がぼろぼろになることなく、彼らの足が長時間歩いたことで腫れ上がることもありませんでした。神様は彼らの毎日の生活を守ってくださり、また彼らの健康をも守ってくださいました。イスラエルの民を40年間守り必要なものを備えてくださった神様は、今の私たちをも守ってくださいます。詩篇の121篇の著者は神様の守りを繰り返し述べています。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。」神様の目はいつもあなたに注がれています。神様は、今この瞬間にも天からあなたを見ておられあなたのために祈っておられます。私たちは自分一人で生きているのではありません。私たちを助け守ってくださる方に守られて生かされているのです。私たちは、この素晴らしい愛の神様に対してどれほど感謝しても感謝仕切れないと思います。
(3) 神の約束を思い返す
 神様のことを思い返すことの大切な点は、私たちが過去の神様の働きを思い起こすことによって将来を考えることができるということにあります。神様は、昔も、今も、将来も、決して変わることのない方です。一度約束されたことは永遠にその約束を忠実に守ってくださる方です。神様は、イスラエルの民が40年間荒野をさまよった時に人々を守り必要なものを備えてくださいました。決して変わることのない神様は、これからも同じように主を信じる人々を取り扱ってくださるはずです。神様はいつも私たちとともにいると約束して下さいました。主イエスが復活の後、40日間弟子達に現れてから天に上げられました。主イエスが地上で弟子達に語った最後の言葉は「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。」という言葉でした。神様がいつもともにおられるならば、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。また、エペソ人への手紙1章3節を見ると「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」私たちが神様から受けることのできる霊的祝福を神様はいつも豊かに与えると約束しておられます。私たちに一番必要なものはこの世の富や名誉や地位のように一時的なもの、いつか消え去るものではありません。神様が私たちに与えてくださる霊的祝福は永遠に消えることのない祝福です。ですから、私たちの将来は、地上の生活のしばらくの間は人間的な苦しみや試練に会うこともあるでしょう。しかし、神様は私たちにあらゆる霊的祝福を与え続けてくださるのです。その時、私たちは何を心配する必要があるでしょうか。
(4) 私たちは世に向かって輝こう
 私たちの教会が進み行く道は神様が開いてくださる道です。神様が共に歩んで下さる道です。神様が北本の地に私たちの教会を建てられた目的は何でしょうか。私たちの教会を通して神様の愛がこの地域にあふれ出ることです。主イエスは言われました。「あなたがたは世の光です。あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」今日まで私たちを守り導いてくださった神様によって私たちは罪を赦され永遠に生きる希望を与えられました。クリスチャンは確かな希望を持っているのです。ですから、クリスチャンは暗闇の世の中を照らす光でなければなりません。私たちは主イエスの愛を受けて、それを映し出す人として生きるべきです。世の中は暗く、自分一人で何ができると皆さんは考えるでしょう。私たちがどんなに小さな光でも、神様がそれを用いて下さいます。そして、一人一人が集まって輝く時に、この世の人々にはっきりと神様の愛を知らせることができるのです。
 今から50年ほど前にアメリカのある町のスタジアムで大きな伝道大会が開かれていました。参加者は全員入り口でマッチ箱を一つ受け取りました。メッセージの最後に説教者が合図をすると会場のすべての電気が消されました。真っ暗です。その時説教者が言いました。「一つの光で世界を照らすことが出来なくても光が集まれば照らすことが出来ます。皆さん、今、マッチをつけて下さい。」すると一本一本マッチの火がともりました。最初は小さな光がぽつりぽつり。しかしだんだん明るくなり、最後にはスタジアム全体が大きな炎で包まれました。この姿を飛行機のパイロットが見ていました。それでスタジアムが火事になったのかと思って知らせたそうです。次の日に、その出来事が新聞の一面に載りました。一本の光がどんなに小さくても、それが集まれば大きな光になります。私たちは一本の光です。光は皆を照らすために光ります。今の日本は暗闇です。私たちが一本一本の光となって主イエスの愛の光をともしましょう。この教会が世界を照らす光となることが、この教会の永遠の使命だからです。



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