2004礼拝めっせーじ

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メッセージ2004


礼拝説教 2004-03-28『幸福の法則』(箴言8章32-36節)
(イントロ)
 今日のメッセージのタイトルは「幸福の法則」です。誰でも、幸福になりたいと願っていますが、なかなかつかむことが難しいようです。「私は今本当に幸せだ」と言う人がどれほどいるでしょうか。「幸福」というものと「喜び」は似ているようですが、まったく違うものです。英語のハッピーは、前にも言ったように、ハプニングと関係がある言葉です。つまり、ハッピーというのは毎日のいろいろな出来事によって感じる気持ちであり、その日その日に何が起きるかによって、ハッピーになったり、ハッピーでなくなったりします。この世の幸福は、私たちの所にやってきて、また去って行くものです。運勢が変わった時、健康が失われた時、計画が失敗した時、この世の幸福は消え去ります。一方、喜びというのは、外から与えられるものによって支配されるのではなく、周りの状況に関わらず心の中からあふれ出てくる思いです。聖書が語る「幸い」とは、神様が私たちに与えてくださる喜びと言うことができます。マタイの福音書の5章に書かれていますが、主イエスがあるとき説教の中で「ああ何と幸いなのだろう」という言葉で幸福について教えられた時、主は、この世から影響を受けることのない、苦しみの中でも心を満たす喜びについて語られたのです。主イエスは十字架にかかる前に弟子たちに言われました。「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」神様が私たちに与える喜びは誰もそれを奪うことができないと主イエスは約束しておられます。今日の箴言の言葉から、この世のなにものも取り去ることのできない永遠の喜びを探り求めて行きたいと思います。
(1)神とともに生きる幸福
 箴言8章32〜33節に「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。」ソロモンは、幸福の土台は学ぶことから始まると教えています。まず第一に神に聞き従うことを命じています。私たちは、自分の幸福を考える時、自分の現在の状態から考え始めます。自分の生きている状態がどうなると良いのかということを考えます。人々は、悩みや苦しみや問題がない状態を幸福と考えますが、そのような状態はいつまでも続くことはなく、はかなく消えやすいものです。ヨハネの福音書1章には「その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と書かれています。神に聞き従うということは、第一に、神の言葉を信じ神の子どもとして生きることを意味します。32節で言われている幸福とは、神の言葉を信じて神と共に生きることを意味しています。神様と霊的な関係で結ばれて生きることが幸福の出発点です。幸福の出発点は神様との関係を結ぶことにあります。神様が人間を造られた目的は、神と人間が喜びに満ちた交わりを持つためでした。神から離れた人間は、親から引き離されてしまった幼子のように大きな不安を感じて生きているのです。
 18世紀のドイツにモラビア兄弟団という名前のクリスチャンのグループがいました。彼らは、彼らの信仰のために故郷ボヘミア地方で激しい迫害を受けたため、ドイツに逃げ、一人のクリスチャン貴族の保護を受けてドイツの森の中に住みました。苦しみの中で彼らは森の中に自分たちの共同体を作りましたが、彼らが建てた最初の建物に彼らのモットーの御言葉として詩篇の84篇2−3節の言葉を刻みました。「私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。」この詩篇には「幸いなことよ」という言葉が3回も使われています。10節には「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。」と書かれています。この詩篇は主イエスの時代よりも500年ほど前に戦争に負けために遠い外国バビロンに連れて行かれたユダヤ人が書いた詩篇だと考えられています。バビロンの街から遠いエルサレムの神殿を思い出しながら、神様のそばにいることを心から願っている気持ちを歌にしたものです。私たちの信仰の喜びは、この詩篇を歌った人のように、私たちのために自分のいのちをも犠牲にしてくださった愛の神を心から慕い求めることにあります。神様を忘れてただ教会生活を守ること、献金や奉仕をすることだけを求めているならば、本当の信仰の喜びは心からあふれて来ません。この詩篇を書いた人にとって、エルサレムに住んでいたときに神殿に行くことは当たり前のことでした。神殿で時を過ごす喜びを当たり前に感じていました。しかし、バビロンに連れて来られたために神殿に行けなくなった彼は、「神の大庭にいる一日は、他の場所にいる千日よりもすばらしい」と告白しています。
(2)神に愛され神を愛する幸福
 34節に「幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は」と書かれています。この箇所はいろいろな解釈がなされています。ある人は、この箇所は非常に勉強熱心な学生が有名な教師が現れるのを学校の戸口で待っている姿を現していると考えています。その学生は先生が語る言葉を一言も逃すまいと熱心に教師が現れるのを待っているのです。また、別の人は、これは愛する人が現れるのを今か今かと待ちこがれている人を表す言葉だと解釈しています。それは箴言と同様にソロモンが書いた雅歌の5章に「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。」という言葉があるからです。しかし、どちらも、自分が尊敬し自分が愛する人が現れるのを熱心に待っている人の様子を描いています。箴言の8章のこの箇所では、神に愛され神を愛する人の生き方が二つの姿で現れています。一つは神様に対する大きな期待です。34節に「日々わたしの戸口のかたわらで見張り」と書かれていますが、神様を愛する人の心には神様に対する大きな希望が与えられます。ローマ書5章5節に「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」パウロの生涯は困難の連続でした。彼は自分の口で苦しみに遇ったことを告白しています。しかし、パウロは希望に満ちて生きていました。そしてその希望は空しい希望ではなく、決して失望に終わることがないと確信していました。なぜ、パウロがそのような希望に満ちていたかというと、聖霊の働きによって彼の心の中に神の愛が注がれていたからです。イエス・キリストを救い主と信じて生きる者を神は愛してくださいます。しかも、この世には、私たちを神の愛から引き離すものは何一つないのです。私たちは永遠に神の愛の中に守られているのです。私たちが生きているこの人生はいつまでも続くものではありません。この世の歴史も将来終わる時が来ます。しかし、クリスチャンの人生は肉体の死とともに終わるのではありません。この世の終わりとともに終わるのではありません。栄光に満ちた永遠の世界へ続いて行きます。今、その栄光に満ちた状態はよく分かりません。しかし、必ずその栄光がはっきりと分かる時が来るのです。この世は罪人の世界です。罪に満ちた世界ですから私たちは、神への確かな信仰を持っていても苦しみに遇うことがあります。それに耐えなければならないのです。しかし、神を信じる者にはその苦しみの意味が分かります。その苦しみに耐える力が与えられます。また、ともに祈る仲間がいます。しかし、そのような苦しみは必ず終わる時が来ます。今の時の苦しみは、永遠と比べればほんの一瞬です。瞬きをする間の苦しみです。しかし、クリスチャンには永遠の栄光が約束されています。神に愛された人は神を愛します。そしてその戒めを守ろうとします。そのような時、神様が私たちの心に大きな希望と喜びを注いでくださるのです。
 神に愛され神を愛する人の生き方のもう一つの特徴は神様を信頼して生きることです。34節に「わたしの戸口の柱のわきで見守って」という言葉があります。「見守って」と訳されている言葉は「待っている」という意味の言葉です。毎日、神様を見上げて待っている人は、神を信頼している人です。詩篇の62篇1節でダビデは「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」と言いました。ダビデの生涯も苦難の連続でした。自分の前の王であったサウルから命を狙われたダビデは逃亡生活の連続でした。また、王となった後も、自分の息子から命を狙われて王宮からいのちからがら逃げ出さなければなりませんでした。彼は何度も、自分が敵によって殺されるかもしれないという緊張の中で生きていました。この詩篇はエルサレムから逃げ延びる時に書かれたものだと言われています。しかい、そのような惨めな苦しみの時にも、彼は神を心から信頼していました。彼は神を信頼して生きることを決断したのです。その時、神がダビデに語られました。11―12節でダビデはこう言っています。「神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。主よ。恵みも、あなたのものです。」神を信頼して神に祈り続けたダビデは、神様から二つのことを学びました。それは神が力ある方であることと、神が恵み深い方であることです。神様が私たちにご自身の力と恵みを働かせて下るとき、私たちは、回りの人を恐れる必要はありません。将来を恐れる必要はありません。神を信頼して生きる人は何事にも動かされない強さを持つことができるのです。
(3)いのちと恵みを見いだす幸福
 35節に「わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。」と書かれています。神を信じる者はいのちを見いだすと書かれています。神を信じ、神とともに生き、神を愛して神の言葉に従って生きる人はいのちを見いだすと書かれています。それはいのちであるキリストが私のうちに生きてくださるからです。ガラテヤ2章20節で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」パウロは言いました。キリストが私のうちに新しい人生を始めてくださるのです。そしてキリストの言葉に従って生きる生活を続けていると、少しずつ、私たちの生き方、考え方が、キリストに近づいて行くのです。しかし、36節に書かれているように、神を信じないで生きる者は自分自身をそこなってしまうと書かれています。いつも言っているように、私たちは神の姿に似せて造られた神の作品です。良い行いをするようにという神の期待が込められた神の素晴らしい、尊い、価値ある作品です。しかし、もし私たちが神に背を向けて生きるなら、私たちの本来の存在目的を損ねてしまうのです。そして、本当のいのちを見いだせずに死を迎えるのです。箴言は断言しています。幸福の法則は何か、それは神を信じ、神と共に生き、神に愛されていることを知って神を愛する人生を生きることです。32節に「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。」とあります。今、自分自身の生き方、羊飼いのない羊のように自分の将来の進むべき方向を知らずに生きるのではなく、神が示された幸福への道を進んで神からのいのちを恵みにあふれて生きて行きましょう。


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