2004礼拝めっせーじ

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メッセージ2004


礼拝説教 2004-04-04『十字架にまで従う主』(ピリピ2章5-11節)
(イントロ)
 今日はキリスト教のカレンダーでは「しゅろの日曜日」と言います。今から約2000年前のこの日曜日に、主イエス・キリストは最後の一週間を過ごすためにエルサレムの街に入られました。エルサレムの街は立派な城壁で囲まれていました。ので、誰でも街の中に入るためには壁に作られた門を通って入ります。主イエスはロバに乗ってエルサレムに入りました。イスラエルでは旧約聖書の古い時代にはまだ馬がなく、王も預言者もロバに乗っていましたが、ソロモン王の時代にエジプトから馬が入ってくると王はみな馬に乗るようになります。イエスの時代に、ロバに乗る姿は王様のイメージにはほど遠いものでした。誰でも、人前に出るときは少しでも自分を立派に見せようとします。しかし主イエスは、馬に乗ることもできたのに、わざわざ荷物を運ぶために使われていたロバを選び、しかも子ロバを選ばれました。たくさんの荷物を背中に乗せられているロバは苦難を表しています。しかも、子ロバを選ばれたのは謙遜な姿が現れています。主イエスは神ですが、苦しみの中にいる人々と同じ苦しみを味わうために私たちと同じ姿になって下さいました。そして自分の家を持つこともなく、自分の財産を何一つ持つこともありませんでした。私たちの苦しみをご自分で体験されたからこそ、私たちを本当の意味で助けることができるのです。しかし、このへりくだりの王としてのキリストを弟子たちも、主イエスの教えに引かれていた群衆たちも正しく理解してはいませんでした。主イエスがロバに乗ってエルサレムの街に入られた時、人々シュロの木の葉っぱを絨毯の代わりに道に敷いてそして「ホサナ、ホサナ、私たしをお救い下さい」と叫んだのですが、わずか5日後には、彼らの多くが主イエスに向かって「十字架につけろ」と叫ぶ群衆に変わってしまうのです。それは、彼らが自分たちの個人的な利益だけを求めていたからです。もし、私たちが、当時の群衆と同じように、自分の個人的な利益を求めるための信仰であれば、主イエス・キリストにつまずくでしょう。しかし、主イエスは言われました。「私が道であり真理でありいのちなのです。」本当に生きる道、本当に知るべき真理、永遠につづくいのちは、エルサレムに入って十字架の道をまっすぐにすすまれた主イエス・キリストから与えられるのです。十字架の道を進むことを通して主イエスは私たちに対する愛を表してくださいました。十字架に表された主イエスの愛の姿勢を見てみたいと思います。
 聖書の中に次のような言葉があります。「いつまでも続くものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」人が生きていく時にもっとも大切なものは愛であると聖書は宣言しています。今日読んだ聖書はピリピという街にあった教会に向けてパウロが書き送った手紙です。ピリピの教会の人々の信仰は素晴らしい信仰だったのですが、この教会には問題もありました。教会員の間の人間関係がうまく行っていなかったのです。私たちの人生でもっとも大きな問題であり、またもっとも頻繁に経験する問題は人間関係の問題です。夫婦、親子、近所、会社や学校など、私たちはいろいろな人との関係の中で生きています。その問題を解決するために必要なものは、イエス・キリストの心であるとパウロは教えています。そしてそのイエス・キリストの心とは十字架で示された愛であり、クリスチャンはキリストと同じ愛の心を持つことが必要だと教えています。
(1)キリストは自分のことではなく他の人のことを考えておられた
 6節に「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」と書かれています。キリストは神です。パウロは別の手紙では「キリストは、すべての物よりも先に存在し、すべての物はキリストにあって成り立っています。」と書いています。イエス・キリストは人と成られた神です。これは非常に不思議な驚くべき事です。キリストの本当の姿は永遠から永遠に存在する神で、時間においても空間においてもいっさいの制限を持たない方です。制限がないので私たちの肉眼では見えません。私たちの理解を超えたスケールの大きい方がひとつの時間の中に入り、そして私たちと同じ小さな一人の人間となられたのです。キリストは父なる神、聖霊なる神と共に、すべての権威、栄光をもってこの世を支配しておられました。しかし、そのキリストが、神としての栄光や特権をすべて手放しても良いと思われて、今から2000年前に時間の中に入り、私たちと同じ者となって地上で生きたのです。それは自分のためにしたことではなく、私たち一人一人のことを考えて決断されたことです。私たちは、自分がもっている小さな権利を、絶対に手放すことができないものだと考えます。他の人のために自分が持っているものを手放そうとは思いません。誰かのために自分のものを譲るなんてことをすれば自分は損をするだけで、相手が得をして相手はますますつけあがると考えるからです。このような自分中心な心が、私たちが関わっている様々な人間関係をそこなってしまうのです。聖書は、このような自己中心の心を罪と呼び、それがこの世界で私たちが経験するあらゆる問題の根本原因であると教えています。私たちは、他の人との間にトラブルが起きた時にじぶんが一歩譲ればトラブルはすぐに解決するのに、その一歩譲ることができないのです。主イエス・キリストは自分が持っている特権や力を自分のために用いることをせず、私たち一人一人の罪人のために用いられたのです。新約聖書の中に「お互いに」という言葉が何度も使われています。「互いに愛し合いなさい」「互いに励まし合いなさい」「互いの重荷を負いなさい」クリスチャンはキリストのように生きることを願う人のことです。パウロが言うように私たちは良い行いをするために神様によって作られた神の作品です。そしてその良い行いをするために、神はイエス・キリストという模範を備えてくださいました。私たちがキリストの心を自分の心として生きる時、第一のキーワードは「他の人」あるいは「互いに」という言葉です。
(2)キリストは仕える者となられた
 キリストは神のありかたを捨てることができると考えました。それは、私たちのために人となってこの世に来て十字架にかかるという明確な目的のためでした。私たちは、ただ漠然と「他の人のため」と考えて生きるだけでは不十分です。そのことを日々の生活の中で実践しなければなりません。ルソーという哲学者がいます。彼は「エミール」という教育論を書きました。そのころは赤ちゃんを育てるのではなく乳母が育てていましたが、この本がきっかけとなって実の母親が子どもを育てるようになりました。「エミール」という本はそれほど当時の社会に大きな影響を与えました。しかし、ルソーは自分の生活においては、生活が苦しかったり自分の活動のために迫害を受けたりしたために自分の五人のこどもを次々に捨てたのです。ですから、頭で考えることと実際に行動することは全く別のことです。しかし、主イエスは、実際に自分の思いを実践されました。7節には「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」と書かれています。主イエス・キリストは天においても地においてもいっさいの権威を持っておられる神でしたが、「仕える者」となって生きられました。主イエスは栄光に充ち満ちた天からこの地上へと降りて来られました。栄光の神の姿のままで来ることもできたでしょうが、主イエスは、低い者の姿を取り、私たちと同じように赤ちゃんとして生まれ、貧しい家庭で育ち、神の子としての働きを始めてからも、自分のものは何一つ持たない生活をされました。そして最後には十字架の恥を自分から進んで受けられたのです。十字架にかかる最後の時まで主イエスは仕える者として生きました。最後の晩餐の時、主イエスと12人の弟子は人の部屋を借りて食事をしました。普通は、家に入るとき、その家の一番低い召使いが客人の土地埃で汚れた足を洗うのですが、その部屋には召使いがいなかったので、彼らの足を洗う人がいませんでした。弟子たちの中で、誰も進んで他の人の足を洗おうとする者がいなかったので、結局彼らは汚れた足のままで食事をしたのです。その食事の最中に突然主イエスが上着を脱ぎ、腰のタオルを取って弟子たちの足を洗い始めたのです。弟子たちは驚きました。また、主人であるイエスが自分の足を洗ってくださったことで後ろめたさを感じました。そんな彼らに主は言われました。「主人であるわたしがあなたがたの足を洗ったのですから、あなたも互いに同じように足を洗い合いなさい。互いに仕える者になりなさい。」と言われました。そのころ弟子たちの間で論じ合っていたことは、12人の中で誰が一番偉いのかということでした。彼らは将来イエスが国を支配する者になると主、その時に、一番地位の高い仕事につきたいと彼らは考えていたのでした。それはこの世の人々の考えです。しかし、主イエスは、私たちクリスチャンに他の人に仕える者として生きる模範を示しておられるのです。
(3)犠牲を払う生き方
 他の人に仕える生き方をしたいと思っている人は多いと思います。しかし、もし、他の人に仕えるために自分が何かを犠牲にしなければならないとなると、多くの人は他の人に仕えることを止めてしまいます。しかし主イエスは違いました。8節に「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」と書かれています。主イエスの十字架の死は殉教の死ではありません。群衆とユダヤ教の指導者たちに殺されたのではありません。主イエスは言われました。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」主イエスは全能の力を持った神ですから、誰から殺されそうになっても、簡単に自分を守ることができました。しかし、主イエスが十字架にかけられたときその力を用いなかったのです。それは、自分の意志で十字架にかかるためでした。私たちの罪の刑罰を身代わりになって受けるために自分からいのちを捨てられたのです。主イエスはあなたのためにいのちを捨てました。それはあなたが新しく、主イエスの愛を受けて生きるためです。人は自分が愛する人のためには犠牲を払うことができます。主イエスが、十字架の犠牲を進んで払われたのは、私たちのことを考えてくださったからです。私たちを愛してくださったからです。主イエスの願いはすべての人が「イエスは主です」と告白することです。イエスが十字架にかかり、復活し、その後天にのぼられてからすでに2000以上たっています。いまもなお、主イエスは、一人でも多くの人が「イエスは主です」と告白することを忍耐強く待っておられます。主イエスは決して私たちのことをあきらめないのです。
 クリスチャンは、十字架に示されたキリストの愛を受けた者です。私たちのために自分のいのちをも惜しまずに捨ててくださった主イエスの愛を受けて新しく生きる力、喜びをいただきました。私たちは、そのような愛を受ける資格のない者ですが、一方的に愛を受けたのです。ですから、私たちは、主イエスが私たちに示してくださった生き方にならって生きることが大切です。キリストは十字架の後に、天においてすべてにまさる栄光を受けられました。神様は自分を低くする者を高くあげ、自分を高くするものを低くされる方です。この世で受ける栄光ははかないものです。一時的なものです。しかし、神様がくださる栄光は永遠に続く栄光です。主が私たちのために十字架にまで従われたことを覚えて、私たちも主の生き方にならって歩みましょう。その時、あなたの人生に神様のあふれる祝福が注がれることでしょう。


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