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礼拝説教 2004-04-11『復活の喜び』(ヨハネ20章1-18)
(イントロ)
今日はイースターです。イースターは私たちの罪の刑罰を私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださった主イエス・キリストが三日目に死から復活して罪と罪の結果の死に対して勝利を宣言された日です。私たち人間にとって最大の敵は死です。どんなに私たちががんばっても死から逃れることのできる人は一人もいません。たとえ私たちがこの世でどんなに高い地位についても、どんなに大きな財産を手にしても、死はこの世のものを全て一瞬のうちに滅ぼす力を持っています。クリスチャンの信仰にとって復活はその中心です。キリストが死から復活したことは私たちの常識で理解することができません。それは、人間の常識を越えて働く神の力であり神の奇跡だからです。このことは2000年前のイエスの時代の人にとっても同じように信じがたいことでした。しかし聖書は、主イエス・キリストが三日目に死から復活されたとはっきりと断言しています。その復活の第一の目的は主イエスの力を示すためではなく、私たちに対して永遠の希望を与えることです。聖書の中に「キリストは死んだ人々の初穂として復活した」と述べています。初穂とは作物の最初に収穫したもののことです。主イエスが十字架にかかり三日目に復活された出来事は「過越の祭り」というユダヤ人がもっとも大切にしていた祭りの時期のことでした。過越の祭りは3月末から4月にかけて行われていましたが、エルサレムの神殿には、収穫された麦の初穂が並べられていました。神殿に並べられた麦の初穂は全国の収穫の代表であり、その後行われる収穫を表すシンボルでした。そのように、主イエスは私たちにとって初穂であり、主イエスの復活は私たちの復活の初穂なのです。復活された主イエスは以前と同じ姿、同じ声を持っておられました。そのように私たちもよみがえる都聖書は約束しています。しかも、復活の主の体は栄光の体で、自由自在に動ける体でした。私たちも主イエスと同じように、時が来れば、栄光の体に変えられ自由自在に動くことができるようになるのです。もう二度と病気になったり、傷んだり、朽ちたりすることはありません。クリスチャンはこの約束を知っているからこそ、自分や自分の周りの人々の状況がどんなものであっても、喜び、期待することができるのです。
今日は、初めに、主イエスの復活が確かな事実であったことを述べたいと思います。「死んだ方がよみがえる」このことは、科学がまだそれほど発達していなかったイエスの時代の人々にとっても決して人間的常識で信じ受け入れることのできないことでした。しかし、主イエスの復活を証言することがら数多くありますので、そのいくつかを皆様にお伝えしたいと思います。まず、主イエスの復活を示す2つの基本的な証拠があります。一つは、主イエスの墓が空っぽであったことです。もう一つは主イエスが人々の前に姿を現されたことです。主イエスの墓が空っぽであったことを反論する証拠は何一つありません。マタイの福音書28章を見るとイエスの墓が空であることをしったユダヤ教の指導者たちが「ローマ兵の番兵が眠っている間にイエスの弟子たちが遺体を盗んで行った」という話を作りあげている様子が描かれています。しかし、ローマの兵隊は当時世界最高レベルの訓練を受けており、警備中に眠ることなどあり得ません。しかも、もし本当に眠っていたとすれば、眠っている時に弟子が盗んでいったとなぜ分かるのでしょうか。しかもこの話はユダヤ人の間に広く広まっていると書かれています。彼らも墓が空っぽであることを認めているのです。墓が空であることを最初に発見したのは女性たちでした。彼女たちはイエスの遺体に香油を塗るために墓に来たのですが、墓の入り口が開いていて中が空であることを目撃します。もし、福音書が作り話だとすると、第一発見者が女性であることは非常に不思議です。というのは当時のユダヤ人社会では女性の証言は認められず、裁判で証言できるのは大人の男性だけだったからです。
次に主イエスが人々の前に現れたという事実があります。ある人はこれは指導者イエスを失った悲しみにくれた人が幻を見たのだと言います。安島さんが息子さんを亡くされた後に言われた言葉があります。「今でも自分の息子と同じ年頃の人を見ると一瞬息子かと思って振り向いてしまう。」愛する家族や友達を失うと誰もがそのような気持ちになるでしょう。しかし、主イエスが人々の前に現れたのは一瞬のことではありません。長い時間現れて会話をし、共に食事もしておられます。また、同じ場所で多くの人の前で現れています。聖書によると同時に500人の人の前に現れたと書かれています。500人もの人が同じ幻を見るとは考えにくいことです。また、イエスの現れは40日間だけです。主が天に戻られた後、誰一人として主イエスの姿を見た者はいません。
その他、主イエスの復活が実際にあったことを示すいくつかのことがあります。第一に礼拝の日が土曜から日曜日に移ったことです。最初のクリスチャンはユダヤ人です。ユダヤ人は旧約聖書の教えを厳格に守っていました。安息日である土曜日は主を礼拝する以外何もしませんでした。しかし、クリスチャンになったユダヤ人たちは早い時期から土曜日ではなく日曜日に礼拝をしています。それは彼らにとって主イエスの復活が信仰の根本であったからです。第二にユダヤ教指導者たちが誰も主イエスの復活の事実に反論をしていないことです。新約聖書の中に「使徒の働き」という書がありますが、これは初代教会がどのような状況で生まれていったかという歴史が書かれています。ユダヤ今日指導者たちは、あらゆる方法を使ってキリスト教が広がらないようにしました。クリスチャンを激しく攻撃しました。しかし、彼らは決してクリスチャンたちが復活を信じているという事実を攻撃していません。そして第三に弟子たちの変化です。キリストの弟子たちは臆病でした。主イエスが十字架にかかる前に逮捕されたとき、彼らは全員逃げ去りました。しかし、彼らは主の復活の後変わりました。キリストが復活したという信仰を持ち、人々に広めたため、彼らは迫害を受けました。多くの初代のクリスチャンたちは信仰のために殺されました。しかもその信仰は少し前に起きたキリストの十字架と復活という事実に基づく信仰であって、将来の理想的な世界を作ろうという信仰ではありませんでした。もし、弟子たちが、主イエスが復活していなかったことを知っていながら、死んだ者が復活したという常識で考えれば馬鹿げたことのために喜んでいのちを捨てることができたでしょうか。しかし、実際には、初代クリスチャンたちの信仰によってローマ帝国の東にあったエルサレムにいたわずか120人ほどがもっていた復活信仰はあっという間にローマ帝国全土に広まり、最終的にはクリスチャン迫害を続けたローマ帝国はキリスト教の国なりました。歴史はそのように動いたのです。これらの歴史的状況を考えるならば、どうしても主イエスの復活があったとしか考えられません。むしろ主イエスの復活がなかったことを証明するのは不可能でしょう。しかし、主イエスの復活は、歴史的な事実であることを証明することも大切ですが、もっと大切なことは、主イエスの復活があったから、私たちは自分のすべての罪が赦されて神と共に生きる永遠のいのちが与えられるようになったということです。最初に言いましたように、主が初穂として復活されたことにより、私たち一人一人も、主イエスと同じように復活する者となったのです。
今朝読みましたヨハネの福音書は、他の3つの福音書が当時のクリスチャンの間でかなり読まれるようになってから、ずっと後に書かれました。そのため
ヨハネの福音書に記されている出来事は特に霊的な目的をもって選ばれて書かれているのです。主イエスの復活に関する記事では、ヨハネは復活のキリストに対する信仰のいろいろな実例を示すことであったようです。今日は、マグダラのマリヤと呼ばれて一人の女性の姿から学びたいと思います。彼女は主イエスの七つの悪霊を追い出してもらった女性でした。おそらく彼女の生活は乱れていたでしょう。不道徳な生活をしていたでしょう。服装が派手で、他の人からいつも後ろ指をさされて生きていた女性です。人は彼女の外見を見て彼女を判断していました。しかし、主は彼女の心を見ていました。主イエスによって悪霊を追い出してもらったことで、マグダラのマリヤの人生は変わりました。彼女はいつも主イエスに付き従い、主イエスの働きを助け、主イエスの話を熱心に聞くようになりました。彼女は十字架で主イエスが命を捨てる場面を見届けました。また、日曜日の朝早くから主イエスの墓に来ました。主の遺体に香油を塗るためでした。このように彼女の心は主イエスに対する愛と感謝でいっぱいだったのです。
(1) イエスの死を悲しむマグダラのマリヤ
主イエスの遺体は十字架から下ろされた後、アリマタヤ出身のヨセフという人が持っていた新しい墓に納められました。そしておそらく日曜日の早朝、主イエスは死からよみがえられました。そして同じ日曜日の朝、まだ暗い時にマグダラのマリヤは他の3人の女性といっしょにイエスの墓に向かいました。ところが、おどろいたことに見張りをしているはずのローマの兵隊はいません。そして墓の入り口を塞いでいた大きな石の板が取りのけてありました。それで、彼女は急いで弟子達の所へいって言いました。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」その言葉を聞いてヨハネのペテロの二人は急いで墓に向かって走りました。マグダラのマリヤも二人の後を追って墓に戻りました。ヨハネとペテロの二人が墓の中で見たものは、イエスの頭に巻かれていた布切れでした。それは体を巻いていた亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっていました。「巻かれたまま」と訳されている言葉は布がまるで中にあったものが急に消えたようにきちんと巻かれていたことを表す言葉です。この福音書を書いたヨハネはそれを見て信じました。彼こそ主イエスが復活したことを最初に信じた人間です。ヨハネは墓に残されていた布を見て信じました。体を巻いていた亜麻布もキリストの頭を巻いていた布もまるで突然遺体が消えたように抜け殻のようになっていたからです。もし誰かが遺体を盗むなら布を取ることはしないでしょう。また、布を取ったとしてもきちんと元のかたちになるように巻くことはしないでしょう。二人はまた他の弟子達の所へ戻りました。二人はもう少しそこで待っていたら復活の主に会うことができたのですが、彼らは少し急ぎすぎました。一方、マグダラのマリヤは墓に戻って来ましたが中に入らずに入り口の所に立って泣いていました。
彼女にとって主イエスは人生のすべてでした。その主イエスが死んでしまったのです。さらに悪いことに、主イエスの遺体を大切に守るために香油を塗ろうとして墓に行って見ると主イエスの遺体がなくなっていました。マリヤの人生は悲しみのどん底でした。私たちがもし主イエスの十字架だけを知っているとすれば、私たちの心は空しさと悲しみで満ちるでしょう。人が悲しみの中にいると様々な影響を受けます。第一に彼女の目は悲しみのためにはっきりと見えなくなっていました。彼女が墓をのぞき込むと二人の御使いが見えました。そして彼女は御使いに自分の悲しみを訴えました。その時、自分の後ろに人の気配を感じたのか、彼女は振り向きました。そこに主イエスが立っておられたのですが、彼女は悲しみの余りそれが主イエスであることが分かりませんでした。復活の主が生きておられて自分の目の前に立っているのに、それが主イエスだと彼女は気がつかなかったのです。また、彼女は悲しみの余り正しい判断ができませんでした。復活の主イエスを見てマリヤは、主を墓があった園の管理人だと思いこんだのでした。そして、主イエスにむかって「あなたがイエスの遺体をどこかに運んだのなら、どこに遺体をおいたか教えてください。私が引き取ります。」と言っています。彼女はイエスの遺体を自分の力で運ぶことができると思っているようです。このように、人は悲しみを感じると正しい判断ができなくなります。復活の主を信じる信仰から離れると、私たちは自分の回りの人のことや自分を取り囲んでいる状況について正しい判断ができず、本当は自分に出来ないようなことも自分で出来ると思いこんでしまうのです。復活の主を信じることができなかった彼女は絶望的になり、生きる希望・目的を失っていました。墓の中にいた御使いから「なぜ泣いているのか」と尋ねられた時、マリヤは「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」と答えています。私たちは、だれかの為に生きる時、人生の目的が与えられます。人はいろいろな目的を持って生きていますが、聖書は、人の心が完全に満ち足りるのは神の為に生きるという目的を持ったときであると教えています。マリヤは悲しみの余り、正しく見る目を失い、正しい判断を失い、生きる目的を失っていました。
(2)復活の主が彼女に慰めを与える
主イエスはその時、口を開いて彼女の名前を呼びました。「マリヤ」マリヤを名前で呼んだ主イエスの声がマリヤの目覚めさせたのです。マリヤは、それが主イエスの声であると分かりました。彼女はすぐに「先生、ラボニ」と返事をしています。復活の主の声が悲しみのどん底にいたマリヤに大きな慰めを与えました。主イエスはある時こう言われました。「羊は羊飼いの声を聞き分けます。羊飼いは自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」主イエスは、今も私たちに語りかけておられます。あなたの心の入り口にたって私たちを呼んでおられるのです。誰でも、その招きに答えて主イエスを心に迎え入れるならば、マグダラのマリヤと同じように、絶望と悲しみの人生から喜びと慰めの人生へと変えられるのです。主イエスは、私たち一人一人のことを知っておられます。私たちがどのような人生を生きているか、どのように感じているか知っておられます。そして一人一人を名前で呼んでくださるのです。一人一人を特別な一人、この世界でオンリーワンの大切な人間として扱ってくださるのです。
(2) 復活の主がマリヤの人生を変えた
マグダラのマリヤは自分の目の前に立っているのが復活の主イエスであると分かったので主イエスの「先生」と言って抱きついたのでしょう。その時、主は彼女に言われました。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。」この言葉は少し冷たいように聞こえますが、主イエスはマグダラのマリヤにご自分が十字架にかかる前の自分とは違うことを教えておられるのです。マリヤはイエスの遺体がなくなったことで悲しんでいました。そこに主が現れたので、もう二度と主を失いたくないと思って主に抱きついたのでしょう。しかし、主の体は彼女の目には以前と同じように見えましたが、実は栄光の体に変えられていたのです。そして主は40日後には天に戻られるのです。主は、40日後に弟子達の見ている前で姿を消しました。天に帰られたのです。そしてそれから10日後に、主イエスが約束しておられた聖霊がこの世に与えられました。主が私たちと同じ姿になってユダヤ地方で生活をしながら人々と交わる時代は終わりました。これからは、主イエスが聖霊という目には見えない姿でイエスを信じる人の心の中に入ってくださるのです。主が地上で生活をしておられた時は、人々は主イエスに会うために、主イエスの教えを聞くために、主イエスがおられる所まで行かなければなりませんでした。しかし、これからは、私たちがどこにいても、どんな状況の中にいても、私たちの素晴らしい友達となって、私たちと共にいてくださるのです。もはや誰も、私たちのいる所から主イエスを取り去ることはできません。
主はマグダラのマリヤに「私の兄弟のところに行って私が天の父なる神のもとへ帰るということを伝えなさい。」と言われました。それで、彼女は急いで弟子達のところに戻って主の言葉を伝えました。復活の主が最初に出会ったのはペテロでもヨハネでもありませんでした。主イエスを信じる前は多くの悪霊に縛られて惨めな生活をしていたマリヤに現れてくださいました。そして復活のイエスを宣言する最初の伝道者になったのもマリヤでした。彼女の人生は変わりました。復活の主イエスとの出会いによってさらに新しくされました。主イエスは、今も私たちの前に現れてくださいます。そして、出ていって私の言葉を伝えなさいと私たちに語っておられます。マリヤで弟子達のところに戻って驚くべき知らせを伝えました。彼女の人生は新しい目的が与えられました。彼女は喜びに満ちあふれて生きる人に変えられました。
ある画家が少し暗い雰囲気の絵を描きました。山の斜面の高い所に一軒の小屋が立っている絵です。日が沈んだ後で空は薄暗いのです。画家の友人がその絵を見て「なんだか陰気な絵だな」彼に言いました。すると、彼は筆を取って黄色の絵の具で小屋の窓に明かりを描き加えました。その瞬間、その絵の雰囲気が変わりました。暗い雰囲気の絵が輝きの絵に変わったのです。その小屋は疲れた旅人たちに希望を与える燈台に変わりました。私たちはイエスの生涯を聖書で読みます。絵で見ます。主の十字架、主の苦しみを知っています。しかし、それだけで終わったら、その絵は暗い絵のままです。絶望しか残りません。しかし、主イエスの生涯は十字架で終わったのではありません。復活されたのです。死からいのちへとよみがえられたのです。絶望が希望に変わったのです。復活の主は、私たちの人生をも絶望から希望へと変える力を持っています。主はよみがえりです。いのちです。主を信じるものはもはや決して滅びることなく永遠に神とともに生きるのです。主イエスは、あなたのために十字架にかかりました。そしてあなたのために復活されたのです。
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