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礼拝説教 2004-04-18『平安を与える主』(ヨハネ20章19-23節)
(イントロ)
十字架につけられた三日後の日曜日、つまり一週間の最初の日の早朝、主イエス・キリストは死から復活されました。主の復活によって旧約聖書の時代の安息日は終わりました。ユダヤ教の人々は天地創造の時に神様が六日間働いてこの世界を作り七日目に休まれたことを記念して、一週間の7日目を安息日と呼んで特別な日として過ごしました。その日は聖なる日として仕事をせず会堂に集まっていました。最初のクリスチャンたちはほとんどが旧約聖書の教えを忠実に守っていたユダヤ人たちでした。しかし、彼らは信仰を持つとすぐに一週間の終わりの日ではなく、主イエスが復活された週の初めの日曜日に集まるようになりました。それは教会や指導者たちが会議を開いて決めたことではありません。主の復活を目撃した最初のクリスチャンたちが主イエスの復活を自分たちの信仰の土台であることを証しするために日曜日に集まり始めたのです。日曜日をクリスチャンの安息日と呼ぶ人もいます。ユダヤ人の安息日は律法の教えに基づく安息日です。人々は6日間働いてそして休息を得ます。それは、ちょうど良い行いをした結果救いを受ける教えに似ています。一方、クリスチャンの安息日は神の恵みに基づいています。クリスチャンたちは一週間の最初の日に休息を得た後、仕事をします。これは私たちの救いと同じです。私たちは良い行いをしたから救われたのではありません。神様の恵みによって、私たちはただ主イエスを救い主と信じた信仰によって救われたのです。救いを得てからクリスチャンとしての生活が始まるのです。 私たちが罪赦されて神の子とされたのは私たちの良い行いの結果ではありません。神様からのプレゼントです。ただ、私たちは素晴らしいプレゼントを神様からいただいたので、神様に感謝の気持ちを表すために、神様が願っておられる生き方を目標にして生きるのです。
(1)復活の主は弟子たちのところへ来られた
今日読みましたヨハネの福音書19節から23節に書かれている出来事は、主イエスが復活された日曜日の夕方のことでした。エルサレムの町中にある隠れ家のような場所に弟子たちは集まっていました。彼らはユダヤ人を恐れていましたので戸を閉めてその中に潜んでいました。その日、エルサレム中でイエスの墓が空っぽであるという話が広まっていました。そして、墓が空なのは弟子たちが主イエスの遺体を盗んでいったからだという噂が広まっていました。弟子たちは、ユダヤ教の指導者や熱狂的なユダヤ教徒たちからひどい目に遭わされるのではないかと恐れていたのです。その日曜日の早朝主イエスが誰にも気づかれずに復活されてから、夕方までいろいろな出来事がありました。マグダラのマリヤは復活された主イエスと出会ったことを彼らに伝えていました。ペテロとヨハネの二人は主イエスの墓が空っぽで、イエスの遺体にまかれていた包帯が巻かれたまま墓の中に残っていたのを目撃しました。また、主イエスはペテロが一人でいた時に彼に個人的に現れてくださいました。弟子たちは、そのような報告を聞いて主が復活されたことを信じてはいましたが、ペテロ以外、誰も復活の主を自分の目で見ていないので確信が持てなかったようです。彼らの報告がいったい何を意味するのだろうかと話し合っていました。彼らの心は恐怖に満ちていました。彼らの信仰はあまりにも小さな信仰でした。どんな話を聞いても、あるいはいろいろな印を見ても確信を持てずに、人々を恐れているのです。彼らは、主イエスを十字架にかけたユダヤ教の指導者たちが今度は自分たちを逮捕して十字架にかけるかも知れないと恐れ、階段を上ってくる足音やドアをノックする音にびくびくしながら部屋の中に潜んでいたのです。
するとそこへ、突然、復活の主イエスが彼らの前に姿を現されました。復活の主の体は新しい復活の体に変わっていましたから、弟子たちが集まっていた部屋の扉を開けずに中に入ってくることができたのです。主イエスは私たちの所へ来てくださる方です。主は3年間弟子たちと生活を共にして彼らに信仰を与え、いろいろな教えや訓練をされました。しかし、弟子たちの信仰はマグダラのマリヤの信仰に及びませんでした。弟子たちは成長していなかったのです。主イエスはそんな彼らを見てどう思われたでしょう。しかし、主は彼らを見捨てることはありませんでした。むしろ彼らの心の恐れを消し勇気づけるために彼らの所へ来てくださいました。そして、彼らにまず「シャローム。平安があなたがたにあるように。」と言われました。主は彼らの不信仰をしかることもできたでしょう。確かに後で弟子たちの不信仰を責められるのですが、まず、その前に主は彼らに「恐れないでいなさい。平安でいなさい。」と言われました。シャロームという言葉はイスラエルの普通の挨拶の言葉ですが、そこに集まっていた弟子たちにとっては特別にうれしい慰めの言葉でした。弟子たちは皆、落ち込んでいました。自分の主イエスに対する信仰が本当に弱い信仰であることに気づいたからです。実は、弟子たちが主イエスと最後の食事をした後、主が弟子たちに言われました。「今夜、私がつかまる時、あなたがたは皆逃げ出します。」これを聞いたペテロも他の弟子たちも力を込めて「絶対そんなことはありません。たとえ死ななければならないとしても私はどこまでもあなたについて行きます。」と答えたのです。ところが、それからすぐ主イエスがユダヤ教の指導者とローマの兵隊たちに逮捕されると、自分の誓いの言葉をすっかり忘れて弟子たちは皆、主イエスを一人残して逃げてしまったのです。主が十字架につけられたときも、それを近くで見ていたのはヨハネだけだったようです。しかし、復活の主は彼らをしかる前に彼らを励ますために「あなたがたに必要な神のすべての祝福があなたがたとともにあるように。」と言われたのです。詩篇に「主は私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」という言葉があります。主は、信じる者にはいつも「平安あれ」と宣言してくださるお方です。
(2)主は彼らに体の傷跡を見せられた
そして、主は弟子たちにご自分が十字架で受けられた手と脇腹の傷を見せられました。それは、弟子たちが見ているのが幻や幽霊ではなく、確かに十字架につけられて死んだ主イエス、彼らを教え訓練していた主であることを、弟子たちに知らせるためでした。しかし、主の体の傷跡は、ただ彼らが見ているのが主ご自身であることを表すためだけではありません。これらの傷跡は、私たち一人一人の罪が完全に赦されるために主イエスご自身が犠牲を払ってくださったことを示す証拠でもあったのです。言い換えれば、主の体の傷跡は、私たちと神様との関係が新しくなったことの証拠なのです。ローマ人への手紙5章1-2節に「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」と書かれています。神との平和とは何でしょうか。私たちは罪を赦される前は、心の奥底で自分の罪を悩み、罪の裁きを恐れる者でした。しかし、主イエスを救い主と信じる者の罪はすべて十字架において処理されました。ですから、神を信じる者はもはや神のさばきを恐れる必要がなく、永遠に神様の力強い御手に守られて生きることができると確信することができるのです。これ以上に大きな心の平安があるでしょうか。主イエスは私たちのために十字架で死なれました。しかし、主は死者の中から復活して罪と死に対する勝利を宣言されました。そして、今、主は、私たちのために生きておられるのです。
(3)主は弟子たちを遣わされた
弟子たちは、今、自分たちの目の前に立っているのが復活された主イエスであると確信したとき、彼らの心は恐れから喜びに変わりました。その時、主は言われました。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」この主イエスの言葉を聞いた弟子たちはどう思ったでしょうか。主イエスは、以前、弟子たちに「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」と言われました。弟子たちはこのような深い主イエスの愛によって愛されていました。この言葉に弟子たちは励まされたことでしょう。そして、今度は父なる神が主イエスをこの世に遣わしたのと同じように、彼らをこの世に遣わすと言われたのです。しかも、弟子たちは、さきほど言ったように、主が逮捕された時にみんな主を一人残して逃げるという大きな失敗をしているのです。弟子たちもそのことで、自分の信仰の弱さを知って非常に落ち込んでいました。弟子たちは主を見捨てました。しかし、主イエスはそんな彼らに主イエスの十字架と復活のメッセージを世の中の人々に伝えるというこの世でもっとも大切な任務を委ねられたのです。何という特権と責任を主イエスは弟子たちにお与えになったのでしょう。ところで、この部屋にいたのはイエスの弟子たちだけではありませんでした。エマオという村に行く途中に主イエスと出会った二人の人もいました。そのことを考えると、主イエスは特別な弟子たちだけにこの言葉を語っておられるのではなく、主イエスを信じる一人一人に向かって語っておられると考えることができると思います。
また、主イエスは弟子たちを遣わしただけではありません。彼らに、その大きな務めを果たすことができるように新しい力を与えられました。22節にあるように、主イエスは彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」この場面は創世記2章で神様が人を造られたときの様子に似ています。人は土から造られました。しかし、その状態ではまだ人は生きていませんでした。神が人の鼻に息を吹き込まれた時、人は生きる者となりました。神の息が人の肉体のいのちを産み出したのと同じように、この時の主イエスの息は弟子たちに霊的な新しいいのちと力を与えました。聖霊の助けなしに、弟子たちは主イエスから委ねられた大きな働きをすることはできませんでした。
主イエスは、このようにして弟子たちの恐れを消し、彼らの心に平安を与え、新しい力を与えてくださいました。神様は私たちに平安を与え、将来の生活を導いてくださるだけではなく、そのために必要な力、助け、祝福を与えて下さるのです。それは、すべて主イエスが十字架にかかり罪を滅ぼし、復活されて、私たちに神との平和を与えてくださったからです。神との平和が私たちの心の中の、罪、恐れ、不安、疑いなどをすべて追い払ってくださいました。主が与えてくださる平安は心の葛藤が静められることです。主イエスの弟子たちには厳しい将来が待っていました。彼らの多くは信仰のために殺されました。しかし、彼らの心から平安が奪い去られることはありませんでした。彼らが神の絶対的な力を信頼し神の言葉を心から信頼していたからです。この世の人が考える平安とは問題のない状態を意味します。そのような平安は問題が起きると消えてしまいます。しかし、神が与えてくださる平安は、私たちがどんな状況に置かれていても変わることのない平安です。
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