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礼拝説教 2004-04-25『復活の主と共に生きる』(ルカ24章36-48節)
(イントロ)
ルカの福音書の24章には最初の復活の日の出来事が書かれていますが、3つの場面が描かれています。第一の場面は主イエスが復活された日曜日の朝、イエスの体に香油を塗るために墓に出かけた女性たちが、空っぽの墓の中で御使いと出会った時の出来事です。第二の場面は、その日の午後、エマオという村に向かって歩いていた二人のキリストの弟子の前に主イエスが現れてくださった出来事です。そして、第三の場面が、今日読んだ箇所ですが、同じ日曜日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れて集まっていたイエスの弟子とエマオの村からエルサレムに戻って彼らの所に来ていた先ほどの二人の弟子たちの前に、突然、主イエスが現れた時の出来事です。ヨーロッパの古いカトリック教会には美しいステンドグラスがありますが、よく3つの場面をつないで三面鏡のようになったステンドグラスがあります。ルカの24章のこの3つの場面をつないだステンドグラスもあるそうです。24章に描かれた3つの場面では、人々が御使いや復活の主と出会った様子を描いていますが、女性達の場合も、エマオに向かっていた二人の弟子場合も、またエルサレムの町で隠れて集まっていた弟子達場合も、みな同じパターンであることが分かります。彼らは皆、初め恐れを感じました。そのために御使いや復活の主イエスが彼らの不信仰を指摘されました。そして彼らが覚えていなければならないことを教えられました。そしてその後、彼らは復活の主イエスを人々に伝える者になりました。
(1)ペテロに現れたイエス
最初のイースタの日曜日は、本当にいろいろなことがありました。その日の朝、イエスの墓が空っぽだというニュースが11人の弟子達のところに届きました。それでヨハネとペテロはイエスの墓へ走って行き、確かにイエスの遺体はなく、イエスの体に巻かれていた布が巻かれたままで残っているのを自分の目で見て主の復活を信じ、喜んで戻って来ました。その後、弟子の一人トマスはどこかへ出かけて行き、まだ戻っていません。ペテロも一人でどこかへ出かけましたが、その時、主イエスは、他の弟子達に現れる前に、ペテロが一人でいる時に、ペテロだけに特別に現れてくださいました。それが何故分かるのかと言うと、24章34節で10人の弟子達が「「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていたと書かれているからです。ペテロは、みなさんもご存じのように、主イエスが十字架の裁判を受けておられた時に、その様子をみようと裁判が行われた大祭司の家の中庭にそっと来ていたのですが、回りの人間から「お前はキリストの仲間だろう」と言われた時に、すごく恐くなって「私は、仲間じゃない。」と3回も繰り返して言いました。ペテロは主イエスから、そのことを預言されていたのですが、彼は、その時、イエスに向かって「たとえ殺されるとしても、私はあなたを知らないとは絶対に言いません」と誓っていたのです。ペテロは嘘を言ったのではありません。彼は本当に主イエスのために命を捨てたいと思っていたのですが、実際に自分の命の危険を感じた時に、彼は自分の命を守ろうとしたのです。彼は自信過剰でした。十字架にかかる前、主イエスは時間をかけて祈り続けられましたが、ペテロは目を覚まして祈らず眠ってしまいました。主イエスが預言されたように、自分が3回もイエスを知らないと言った時、もう夜が明け始めていました。鶏の鳴く声が聞こえました。鶏の声を聞いて我に返ったペテロは自分の弱さ、自分の自己中心な心を見て、ひどい自己嫌悪を感じて彼は激しく泣きました。ペテロは大祭司の家から走り出て、イエスが祈られたゲッセマネの園に行ったかも知れません。彼は激しく泣きました。キリストの12人の弟子のリーダーとして振る舞っていたペテロは一生消えることのない恥を経験し落ち込んでいました。しかし、主イエスはペテロの心をよく知っておられました。「イエスを知らない」と叫んだペテロが本当のペテロではないことを分かっておられたのです。復活の主イエスが、ペテロの前に初めて現れた時にどんな話をされたのか、それは聖書に書いていないので分かりません。しかし、ペテロは主に向かって自分がしたことを告白し悔い改めたに違いありません。そして主イエスはペテロをお許しになりました。
それだけではありません。ある時、弟子たちがガリラヤ湖で復活の主イエスと出会いました。主イエスは弟子達と湖の畔で食事をされました。食事が終わった時に、主イエスは、他の弟子達がいる前で、ペテロに言われました。「私の子羊を飼いなさい。」これは、今風に言うと「ペテロ、あなたは、これから生まれる新しいクリスチャンを導く牧師になりなさい。」ということです。ペテロの罪はすでに赦されていたのですが、主イエスは他の弟子達の前で公の場でペテロの立場を回復してくださいました。そしてその時に主イエスがペテロに尋ねられたことは「主イエスを愛するか」という問題でした。ペテロにはいろいろと欠点があり失敗も多い人間でした。しかし、ペテロがイエスを愛する心は真実だったのです。イエスを裏切ったユダはイエスの自分がしたことを後悔しましたが、イエスのところへ戻ってきませんでした。一方ペテロは一生の恥となるような失敗をしましたが、イエスの所から離れませんでした。そういうペテロの心をすべて知っておられるイエスは、わざわざ他の弟子達のいる前でペテロに、最も大切な働きを委ねられました。失敗を経験する前のペテロは自信満々で、どこか、他の弟子達を低く見ているところがありました。ですから、他の弟子達も心の中では「ペテロはいつも自分が一番だと思っている」と考えていたのです。他の弟子達は、ペテロが3回も人の前でイエスを知らないと言ったことを聞いた時、きっと心の中で思ったかも知れません。「なんだ。ペテロは口ばっかりじゃないか。いつも偉そうな口振りだが、あいつの信仰はたいしたことないじゃないか。」ペテロがこれから教会の指導者になることに反対する弟子達もいたでしょう。しかし、主イエスが直接彼らの見ている前で、その務めをペテロに委ねたのですから、誰も文句は言えません。このように復活の主イエスは、私たちの外側の行いや姿だけを見て私たちを判断するお方ではありません。私たちの心を視てくださるのです。そして、私たちが今、どこにいるか、どんな心でいるか全部分かっておられます。そして一人一人を特別に扱ってくださるのです。
(2)弟子達の不信仰の目を開く主イエス
イエスの弟子達が部屋に集まってペテロから復活のイエスに出会った話を聞いていた時に、こんどはエマオの村から二人の人がやってきました。彼らは復活の主イエスと出会って、いろいろ聖書の話を教えてもらったので心が燃えていると語りました。そこに集まっていた弟子達はその話を聞いて、やっぱりペテロの話は本当だったのだと思いました。そのような場面に、突然、主イエスが姿を表したのです。そして主イエスは彼らに「平安があなたがたにあるように」と言われたのですが、ルカの福音書を見ると彼らは幽霊を見ているのだと思って恐れたと書かれています。彼らはペテロの話やエマオから来た二人の男の話を聞いていたのですが、突然目の前に主イエスが現れたので、心の準備が出来ていなかったのでしょう。彼らは恐れたのです。彼らは主が十字架に掛けられたのち復活するということをなかなか完全に信じることができなかったようです。そのような弟子達の不信仰に主イエスはがっかりされたことでしょう。38,39節を見ると彼らに次のようい言われました。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」おそらく彼らは復活の主イエスの体を触ったことでしょう。手や脇腹の傷をさわった弟子もいたでしょう。それは、たしかに主イエスの体でした。彼らの心が変わりました。今度はうれしさの余り、自分の目を信じることができませんでした。主イエスは、まだ彼らが完全に復活を信じ切れない様子なので、最後の手段として、彼らが見ている前で焼き魚を食べました。ここまで来ると、弟子達も疑うことができません。弟子達が主イエスの復活を確信するのに、何と時間がかかったことでしょう。
(3)復活の証人として生きなさい
弟子たちが主イエスの復活を確信した時、主イエスは彼らを聖書の御言葉をもって教え、彼らにチャレンジを与えました。弟子達は主イエスの「平安があなたがたにあるように」と言う言葉を聞いて慰められました。また、主の復活した体を見、またその体を触わり、また主イエスが魚を食べるのを見て、喜びに満ちあふれました。しかし、主イエスは旧約聖書について語り始めました。主イエスは、ただ弟子たちがイエスの復活という奇跡を自分の目で目撃したという個人的な体験にとどまってはいけないことを教えるために御言葉から教えられたと思います。私たちは、特別な体験をすると、その体験を誇ることがあります。しかし、主イエスは、復活は限られた特別な人だけが持つ特別な体験ではなく、すべての人が知らなければならない素晴らしい知らせであるということを弟子達に教えようとされたのです。それで、主イエスは彼らが聖書を理解出来るように、十字架と復活について旧約聖書に書かれていることを弟子達に教え始めたのです。主イエスが神の子としての働きを始めた時に言われた「神の国が近づいた」ということが実現するために、主イエスの十字架と復活がどうしても必要だということを教えられました。私たちも、今は、主イエスと直接であったり、主イエスの体に触ったりすることはできません。そのようなことをする必要もありません。しかし、私たちは、聖書に書かれている御言葉の約束を確信することができるのです。私たちは、自分が置かれている状況がどんな状況であっても、御言葉の約束を信じ、その約束を受け取っていくことができます。また受け取っていかなければならないのです。私たちが今神様から受ける慰めは、何よりも御言葉を通して与えられるのです。
しかし、主イエスは彼らを御言葉をもって励ましただけではなく、彼らが福音のメッセージをもって人々のいる所へ出ていくように命じられました。47、48節で主は弟子たちに言われました。「罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」旧約聖書のイザヤ書43章10節には次のように書かれています。「あなたがたはわたしの証人、・・主の御告げ。・・わたしが選んだわたしのしもべである。」主の十字架と復活の知らせ、これは一部の特別な人たちだけが受ける知らせではありません。世の中のすべての人に届けられるべき知らせです。イザヤ書に書かれているように、私たち一人一人は神様から特別に選ばれた十字架と復活の証人です。私たちが伝えるのは難しい宗教の教えではありません。旧約聖書に預言されていたこと、そして主イエスによって成就した十字架と復活です。私たちは主の十字架と復活によって永遠の罪の裁きから解放され、神の子どもと
して永遠の平安の中を生きることができるのです。私たちも、誰かから、この素晴らしい救いの知らせを聞いてクリスチャンになりました。今度は、私たちが暗闇の時代を生きている、主イエスを知らない人々に伝える証人として生きていくべきなのです。
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