2004礼拝めっせーじ

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メッセージ2004


礼拝説教 2004-07-04『明るい心で生きるには』(箴言17章22節)
(イントロ)
 よく「クリスチャンは固い、暗い」と言われます。教会の雰囲気も暗いと言われます。たしかに、聖書は、私たち人間が自分の罪を悲しみ、その罪を悔い改めることを命じています。また、伝道者の書7章6節には「愚かな者の笑いは、なべの下のいばらがはじける音に似ている。これもまた、むなしい。」と書かれています。表面的な楽しみ、笑いは空しいと教えています。しかし、聖書は、私たちが、いつも暗い気持ちで生きるように教えている訳ではありません。むしろ、いつも喜んで生きるようにと命じているのです。イエス様も、説教の中で次のように言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたの喜びが満たされるためです。」神様は、私たちをご自身の子供として迎えてくださいました。そして親が子供の幸せを願うように、神様は私たち一人一人が喜んでいきること、幸せに生きることを願っておられるのです。ソロモンが書いた箴言の17章22節の言葉は、明るい心で生きることの素晴らしさを教えています。「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」陽気な心、明るい心で生きることが長生きの秘訣だと教えているようです。それでは、私たちは、どのようにすれば「陽気な心」で生きることができるのでしょうか。
1.本当に明るい心は神を知ることによって与えられる
 パウロは世界で最初のキリスト教宣教師になって私たちの想像を超える苦難を経験しました。パウロは3回の大きな伝道旅行を行った後、ユダヤ教の人々に訴えられ、それがきっかけでパウロはローマに行き、そこで軟禁状態になりました。彼はピリピという町にあった教会に手紙を書きました。パウロがその手紙を書いた時、彼は信仰のために投獄されていました。鎖につながれて、自分がいつ殺されるか分からないという緊張の中に生きていました。しかし、この手紙の中で、パウロは繰り返して「喜び」という言葉を使っています。ピリピに住んでいたクリスチャンたちも信仰の迫害を経験しており、多くの人の生活は貧しかったのですが、そのようなクリスチャンに向かってパウロは3章1節で「主にあって喜びなさい。」と言いました。パウロはただ「喜びなさい」と言ったのではありません。「主にあって」つまり「キリストにあって喜びなさい」と言ったのです。 
 まず第一に、私たちは神との交わりを回復するときに喜びを感じます。イエスと出会って人生を変えられた人は大勢いますが、その中にザアカイという名前の取税人がいました。彼は自分と同じユダヤ人から税金を取り上げて支配者であるローマ人に納めていました。そのため、取税人は人々から非常に嫌われていました。また、多くの取税人は不正をして、一般の人を苦しめて自分だけが裕福になっていました。そんな生き方をしていたザアカイは孤独でした。金は余るほど持っていましたが、心は寂しかったのです。そんなザアカイはある日、イエス様が来ていることを聞いて、急いでイエス様を見に行きました。ところがあまりの人で背が低かったザアカイには何も見えません。しかし、どうしてもイエス様を人目見たかった彼は、そばにあった木に登って木の上からイエス様を見ようとしたのです。その時、イエス様は彼を見上げて「ザアカイ、降りて来なさい。今夜はあなたの所に泊まるから。」と言われました。彼の周りにいた人々はザアカイを貧しいユダヤ人を苦しめる悪人と見ていました。しかし、主イエスはザアカイを、金は持っているが平安も喜びもない孤独な人間だと見ました。そして、そのザアカイとの関係を回復したいと願われました。それで、イエスに「今夜は泊めてくれ」と願ったのです。主イエスは、誰からも交わりを求められないザアカイに、交わりを持とうと近寄ってくださいました。いつも人から嫌われていたザアカイは主イエスの言葉に感激して大喜びで主を自分の家に迎えました。イエスの言葉が彼の心を開放きました。彼は自分の家を開放しました。そして、彼はこれまで一生懸命ためてきた財産を貧しい人にあげることを約束しました。ザアカイは、主イエスによって神様との関係を回復してもらいました。主イエスはザアカイに言われました。「今日、救いがあなたの家に来ました。私がこの世に来たのは失われたものをさがしだしてすくうためです。」「失われた」というのは、「間違った場所にいる」とか「いるべきところにいない」という意味を持っています。聖書には繰り返して「罪」という言葉が使われていますが、ギリシャ語では「ハマルティア」と言います。これは「的はずれ」という意味です。人間が神を無視して生きる時、それは的はずれの人生なのです。
 私たちは、神によって作られたいのちです。ですから、私たちの心は、作り主である神を知り、神と交わり、神とともに生きるときに本当の心の平安を感じるのです。私たちが、生きていて、漠然とした不安を感じるのは、神から離れて生きているからです。神から離れた人間は、親から離れた子どものように自分が誰なのか、分からないので不安を感じるのです。第二次世界大戦の時に中国に残された日本人孤児が自分の本当の親を捜しに日本に来ます。一人の人が最期まで親が現れなかったため、そのまま帰らなければなりませんでした。その人が大きな声で叫びました。「お母さん、私はだれですか。お父さん。わたしは誰ですか。私の本当の名前は何ですか。」私たちは、自分を作ってくださった神様と出会う時に、初めて、自分が誰であるのか、どこから来てどこへ行くのか、何のために生きているのか、というような生きるうえでもっとも大切な質問の答えを見いだすのです。幼い子どもは、親の手を握っていれば安心しています。周りの状況がまったく分かっていなくても、お母さんやお父さんの手がそこにあれば安心です。親を信頼しているからです。私たちの心も、本当に信頼できる方を知り、その方と交わるときに本当の平安と喜びを感じることができます。
(2)思い煩いは体に大きな害になる
 箴言17章22節の後半には「陰気な心は骨を枯らす」と書かれています。私たちの心が悲しみや苦しみで満ちていると、それは骨を枯らすように体には大きな害を与えます。私たちは、この世で生きる限り、いろいろな不安や悩みを持ちます。しかし、主イエスは、そのような思い煩いをする必要はないことを強くおしえられました。マタイの福音書6章25節から34節までを読みましょう。ここで、主イエスは思い煩いが不必要である理由を説明しています。(1)25節の意味は、私たちにいのちを与えてくださったのは神ご自身であるので、神は、生きるのに必要な食べ物や着るものを必ずそなえてくださるはずです。(2)鳥は、働かない訳ではありません。しかし、私たちと違って、明日どうなるか、自分の将来がどうなるかと必死で考えたり、焦ったりしないで、一日一日を過ごしています。将来のために蓄えたものの中に安心することはありません。(3)私たちは、思い煩っても、自分の寿命を一日延ばすことはできません。むしろ、箴言に書かれているように、思い煩って、陰気な心で毎日を過ごしていると、体はぼろぼろになってしまいます。(4)イエス様はパレスチナに咲く花について語っておられます。主イエスが「野のゆり」と呼ばれたのはパレスチナに多く見られる芥子の花のようです。とてもきれいな色で咲く花ですが、パレスチナに東の砂漠から来る熱風が吹くと、それらの花は一瞬のうちに枯れてしまいます。枯れた花は燃やすしかありません。しかし、そのようないのちの短い花であっても、神様は人間がマネすることができないような美しさで飾ってくださるのです。私たちは、神様にとっていのちの短い花よりもずっと価値があります。一本の花にこれだけの配慮をしてくださる神様は、私たち一人一人のことを決して忘れることはありません。
 では、思い煩いから解放される方法は何でしょうか。主イエスは33―34節で次のように言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」一つは、「神の国と義とを求める」ことです。神の国と義とを求めるとは、私たちが神様の言葉を真剣に受け止め、そこに記されている約束を確信することです。また、そこに記されている神様の教え、命令に従って生きることです。そして、主イエスの十字架に表された私たちに対する神様の愛を受け入れることです。私たちが神様を信頼し、神様の愛を経験するとき、私たちは自分の力だけに頼る必要はありません。この世界を造り、いまも支配しておられる全能の神様の御手に守られ、導かれるなら、私たちは何も心配する必要はないのです。二つ目は、私たちが先走って将来のことを考えるのではなく、一日一日を大切に生きることです。少し極端な言い方ですが、私たちは、明日が来るまで、明日神様がいのちを与えてくださるという保証はないのです。私たちのいのちはいつ取り去られるか分からないからです。ですから、まだ実現するかどうかさえ分からないことをあれこれ考えても時間とエネルギーの無駄なのです。それよりも、今日、自分に与えられている一日、生活を、精一杯生きることが大切です。私たちには、今日果たすべき責任があります。その責任を一日、一日積み重ねて行く時、私たちは不必要な思い煩いから解放されるのです。
(結論)
 私たちが心を明るくして生きるのに必要なものはなんでしょうか。それはキリストのうちに平安を見つけだすことです。このような話があります。ある国の王様が有名な庭師に頼みました。「宮殿の庭に喜びを表す木を植えてくれ。」すると庭師は椰子の木を植えました。庭を見に来た王様は、そこにハイビスカスのような明るい色の花を咲かせる木が植えられていると思っていたので、椰子の木を見てびっくりしました。それで王様は庭師に椰子の木がどうして喜びを表すのか理由を尋ねました。彼は次のように答えました。「ハイビスカスのような美しい花を咲かせる木はとても快適な森や果樹園に他の木といっしょに生えています。しかし、やしの木は自然条件の厳しい砂地に立った一本でも育ちます。それは、やしの木の根は深いところまでのびて、地下深くにある水脈にまで根が届くからなのです。私は、やしの木を見て考えました。人間の喜びは、椰子の木のように、他の人には見えない、心の奥深くに、その源があるのです。私たちが心のうちに主イエス・キリストの霊を持っているなら、そこから喜びがわき上がってきます。その喜びが私たちの心を満たすのです。あなたは喜びを感じるために、他の人と一緒にいる必要はありません。ひとりでいても、あなたの心のうちにおられる主イエスが喜びを与えてくださるのです。自分の周りや外側の条件に左右されずに、いつも心のうちに主イエスとともに生きる喜びがあふれるのです。



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