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礼拝説教 2004-09-05『正直に生きる』(箴言28章11〜14節)
(イントロ)
神様が人間をお造りになったとき、神様は人間が神様と一緒に光の中を歩くことを願って造られました。ですから、聖書の中でクリスチャンは「光の子」と呼ばれています。最初の人間アダムとエバは、神様の光の中で神様との親しい交わりを楽しんでいました。しかし、人間が、神様の教えに反抗して、罪を犯した時、彼らの心は、おそれ、恥、憎しみ、闇、死、そのようなものでいっぱいになってしまいました。アダムとエバが神様の教えに反抗して罪を犯した時から、聖書のメッセージはずっと変わってはいません。聖書は、私たち人間に、罪の生活から立ち直って、もう一度神様との豊かな交わりに生きる人になりなさいと語り続けて来たのです。神様は、ご自分の手でお造りになった一人一人の人間を心から愛しています。私たちは神様に取って大切な一人なのです。そして、神様は、もう一度、私たちと親しい交わりを持ちたいと願っておられるのです。その交わりは、暗闇での交わりではありません。光の中での交わりです。ですから、私たちは、神様の前に何を隠すこともできません。私たちは、自分の本当の姿で神様と交わらなければなりません。神様の目に隠すことができるものは何一つないからです。
箴言28章の「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」という言葉は、私たちが神様の前に正直に生きることの大切さを教えています。
(1) 罪を犯すことの愚かさ
聖書は、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」と教えています。また、別の箇所では、もし人が自分に罪はないと言うなら、その人のうちに真理はないとも言われています。このような言葉を見れば、私たちの自己中心な心の中に、つい本当のことを隠したくなる気持ちがあることが分かります。聖書の中にも、自分が犯した罪を隠す出来事が何度も出てきます。最初の人間のアダムとエバも自分のやったことを隠しました。聖書の神様は全知全能の神様です。つまり何でもできる方であり、すべてのことを知っておられる神様をごまかすことなど絶対にできないのですが、罪びとの性質、傾向は隠そうとすることです。旧約聖書の中の偉大な人物の一人であるダビデも、大きな罪を犯しましたが、自分のしたことを隠すために、大切な一人の人間を殺してしまいました。
罪は、ちょっと見たときはとても楽しそうであり、人のこころを誘惑するものです。エバは、神様から食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまいましたが、彼女が蛇の誘惑を受けてその木の実を見たとき、「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」と聖書に書かれています。誘惑される前は、その木の実を見ても何とも感じなかったのに、誘惑を受けた目でその木を見るとすごく、おいしそうで、楽しそうに見えたので、彼女は、自分の欲望を抑えることができませんでした。神様は、エバにはっきりと言っておられました。「この木の実を食べる者は必ず死ぬ」しかし、エバは、自分が犯した罪の深刻さをあまり感じていなかったのです。「この身をひとつ食べても、別に何も変わらない。」そのように罪というものを非常に軽く考えていました。しかし、エバが罪を犯した結果、重大なことがおきました。エバはアダムをも同じ罪びとに引っ張りこんでしまいました。しかし、アダムだけでなく、彼女の行為によって、彼女から生まれ出てくるすべての人間が罪に苦しみ、罪に縛られ、罪の結果を恐れて生きる人間となったのです。旧約聖書の出来事を見ると、エバが軽い気持ちで行った行為によって、あまりにも悲惨な世界が生まれたことがわかります。エデンの園は楽園でした。愛と喜びに満ちた世界でした。それがあのひとつの行為によって、世界は闇の世界、罪の世界、憎しみの世界、人が互いに傷つけあう世界になってしまいました。私自身、自分の性格の罪深さに落ち込みます。どうして、もっと素直になれないのだろう。自己中心の心がなかったらどんなに心が自由だろうかと思うことがあります。多くの人が自分の罪に悩み苦しんでいます。エバが木の実を食べようとしたとき、自分の行為がどれほど広く深い結果をもたらすことになるか、まったく知らなかったのです。私たちもエバと同じです。人は種をまけば刈り取ることになると聖書は教えています。
第一ヨハネの1章9節に次のような言葉があります。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」この手紙はクリスチャンに向けて書かれた手紙です。神様が私たち人間に求めているのは、私たちが神様の目に完全な生き方をすることではありません。むしろ、自分の弱さを、自分の罪深さを認めて、それを正直に告白することが求められています。私たちが神様と光の中を歩く生活とは、神様の前に何も隠すことをせず、自分のつみを正直に認め、それを悔い改めて、神様に赦してもらうことを求める心なのです。神様は、そのような生き方をする人を愛してくださり、その人を赦し、また、その人をきよめて新しい人へと作り変えてくださるのです。ですから、私たちは、神様の前にいい格好をするのではなく、正直に生きることが大切なのです。
(2) 罪を告白するつとめ
箴言28章13節に「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」と書かれています。罪を告白する者は神様の哀れみを受けると書かれていますが、罪の告白をするときはいつも、自分と神様との関係を意識しているはずです。それは、罪を犯すと、私たちと神様との関係が傷つくからです。それだけではなく、私たちの心をも傷つけることになります。人は、本来、神様との交わりを楽しんで生きるために作られました。ですから、私たちが意識する意識しないに関係なく、神様との関係が正しい状態でないと、本当の安心感、平安を感じることができないのです。イスラエルの王ダビデは、神を愛する信仰者でしたが、あるときに、神様を怒らせる大きな罪を犯しました。そして、彼は、その罪を約1年間隠し続けました。そのときの彼の心を描いたのが詩篇の32篇です。3-4節を読みましょう。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」ダビデは、自分の罪を隠していたとき、心に重くつみのことがのしかかり、彼の心は疲れはてていました。罪は、神様の前に告白するまで、私たちの心に重くのしかかり続けるのです。私たちは、罪を告白しないままで、完全に自由になることはできません。
罪の告白には三つのことが含まれます。第一に、私たちは神様に自分のつみについて語らなければなりません。自分が犯した罪を正直に神様に話すことです。第二に、私たちは神様を信頼することが必要です。神様はひとり子イエス・キリストを十字架につけたことを通して、私たちの罪を赦す道をみずから開いてくださいました。神様が、わざわざ私たちを赦すために大きな犠牲を払ってくださいました。ですから、私たちが罪を告白するとき、神様がその罪を喜んで赦してくださることを信じることが必要です。そして、第三に神様に感謝することです。私たちが罪が赦されたことを神様に心から感謝するときに、初めて神様の愛を経験するのです。
そして、箴言28章13節に書かれているように、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」のです。つまり、罪を告白するだけでなく、それを捨てる決断が必要なのです。本当の告白かどうかを表すのは、私たちの決断です。わたしたちがいくら口で告白していても、じっさいの生活が変わらなければ本当の悔い改めにはなりません。悔い改めを意味するギリシャ語が「Uターンする」という意味の言葉です。
(3)罪からの解放の喜び
「それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」と書かれています。
私たちの神様は「憐れみの神様」です。聖書の大きなテーマのひとつが神様の憐れみです。ダビデは「神様の恵みは天にまで届く」と歌いました。また、86篇では「まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。」ダビデは、自分の経験から、神様の憐れみがどれほど深く、広いものであるかを知っていました。この神様の憐れみを受けるときに、私たちは、罪からも解放されるのです。
第一に、神様の憐れみは神様の臨在を表しています。憐れみ深い神様は、私たちがどんなに罪深い者であっても、また、罪を犯しても、決して私たちを見捨てることはありません。神様が私たちを見捨てることはありません。しかし、私たちは、罪を犯すとき、神様の臨在から逃げ去ろうとしているのです。光から闇の中へ落ちていくのです。私たちクリスチャン信仰の力はどこにあるのですか。それは、一瞬一瞬、この世界を造られたほどの大きな神様が私という一人の人間とともにいてくださるということを知っていることからくるのです。私たちの神様は、この宇宙よりも大きな神様です。しかし、同時に私たちの弱さに同情をしてくださる神様です。私たちは、いつもこのようなすばらしい神様とともにいることをもっと感じて、もっと感謝して、もっと喜ばなければなりません。
第二に、憐れみ深い神様は、私たちに聖霊を与えてくださいました。テトス3章5―6節を読みましょう。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」クリスチャンは、自分の力だけで生きるのではありません。自分の力によって制限されて生きるのではありません。神様は私たちに聖霊を豊かに注いでくださいました。それは、罪から救われた私たちが、聖霊の力によって成長し、もっともっと神様との交わりを深め強くするためです。
神様は、私たちが光の中を歩くように私たちを作られたことをいつも覚えていましょう。神様が期待しておられるように、光の中を歩き続けるクリスチャンでありましょう。その姿勢が私自身を変えるだけでなく、私たちの周りにいる人々に影響と力をあたえ、やがてはこの世界に影響を与えるのです。本気で罪と取り組み、本気で神様を信じて生きる人を神様は求めています。この世界に大きなインパクトを与えるのは、このように正直に生きるクリスチャンなのです。
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