2004礼拝めっせーじ

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メッセージ2004


礼拝説教 2004-09-19『ビジョンを持って生きる』(箴言29章18節)
(イントロ)
 「ビジョン」という言葉は多くの人が好きな言葉です。「21世紀のビジョン」や「将来のビジョン」というように使われます。ビジョンという言葉そのものは「見る」という動詞から作られました。ですから、ビジョンとは何を見るかということと関係しています。「ナポレオンはイタリア征服を目指していたときに、イタリアを見てアルプスを見なかった」と言われています。つまり、彼はゴールをしっかり見つめていて、途中にある様々な困難や障害を見なかったのです。世の中の大部分の人は困難なもの、障害となるものに目を留めます。しかし、少数の人は、目標となるものをしっかりと見つめています。そして、その目標をしっかりと見つめる人々が大きな働きを成し遂げているのです。
今日の聖書の箇所、箴言29章18節には「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」と書かれています。別の聖書では「幻がなければ民は堕落する」と書かれています。旧約聖書にはビジョンという言葉が30回以上使われていますが、聖書が教えるビジョンとは、ナポレオンのイタリア征服のような人間的な野心、目標とは違います。聖書で言うビジョンとは、様々な方法で神様が私たち人間に伝えてくださる教えを意味します。神様が人間の必要に答えるために、私たちに神様の戒め、神様の愛、神様の力を様々な方法で私たちに伝えてくれるですが、それがビジョンです。ソロモンは、私たちが神からのビジョンを見ないと滅びると言っていますが、この言葉が私たちに何を意味するのかを考えたいと思います。
(1) 神からのビジョンを見ない時
 「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」と書かれています。最初に言いましたように、ここで言われている幻、ビジョンとは、これから5年後、10年後に向かってのプランを立てることを意味するのではなく、神様が旧約聖書の時代に預言者に示されたものを意味しています。旧約聖書の時代、イスラエルには預言者が与えられていました。しかし、時々、神からのビジョンが亡くなるときがありました。ソロモンの父ダビデをイスラエルの王にした預言者サムエル以前の時代も神からのビジョンが途絶えていた時代でした。神からのビジョンが与えられないのは、それを受け取る人、神からのビジョンを見て従う人がいなかったことを意味します。サムエルの前の時代のイスラエルの民はそれほどまでに神から遠く離れていたのです。旧約聖書時代を通じてイスラエルの民は、神様の言葉、神様の教えを拒否しました。その時、神様はイスラエルの民にいろいろな裁きを与えましたが、もっとも大きな裁きは神の言葉が与えられないことでした。アモス預言書の中に「彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。」と書かれています。私たちが、この世で生きていく時に、どうしても必要なものは神の言葉です。神からのビジョンです。イエス様がマルタとマリヤの家に行かれた時、イエスの話に聞き入っていた妹マリヤに怒っていた姉のマルタに言われた言葉を思い出してください。主イエスはマルタに言われました。「必要なものはわずかです。いや一つだけです。マリヤはそれを選んだのです。」マリヤはイエスの言葉をじっと聞いていました。私たちに本当に必要なのは神からの言葉、神からのビジョンなのです。
 私たちが、この神からのビジョンを見ないで生きる時、私たちはどうなるのでしょうか。箴言29章18節の言葉には「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」と書かれています。「ほしいままにふるまう」と訳されている部分は、もともとのヘブル語では「制限しているものを振り落として捨てる」という意味の言葉です。ソロモンの言葉は私たちに対する警告の言葉です。神様はいつも私たちを見ておられます。私たちが何を考え、何をしているのかを全部知っておられるのです。そして、時には警告の言葉や制限の言葉を与えることがあります。その時に、神様の言葉に耳を塞いでしまうと、その結果は恐ろしいのです。聖書の中には、人間が神からの言葉、ビジョンに耳を塞いでしまった後の結果がいろいろと書かれています。まず、第一に、人は、ビジョンを見なくなると「自分を制限しているものを捨て去る」とありますから、人は、神からの言葉を無視する時に、人間は自分の欲望に従って生きるようになることを意味しています。旧約聖書の時代に起きた出来事の中で、もっとも顕著な出来事は、モーセが神からの十戒を受け取るためにシナイ山に40日間入っていたときに起こりました。そのころイスラエルの民は、指導者モーセに導かれてエジプトの苦しい生活から脱出して、神様が導いてくださる約束の地へ向かっていました。ところが、シナイ山で、神様がモーセを呼ばれたので、モーセは民を残してシナイ山を登って行きました。40日もモーセが戻って来ないので、民は恐れを感じました。そして神の言葉を聞かずに自分勝手な行動を始めました。彼らは、彼らを制限していたものを捨てました。そして、神様が禁止しているのに、金で子牛を作ってその回りで踊りを始めたのです。それだけではなく、食べて飲んで、不道徳なことを行いました。このように、人間は、神様からの言葉、ビジョンを聞かないと、自分を抑えることのできない人間になってしまい、自分の欲望に従って生きるようになるのです。
 また、「制限しているもの捨て去る」ということですが、制限しているものというのは私たちを縛っているものとは違います。例えば、糖尿病の人は甘いものを制限します。しかし、それはその人を苦しめるためのものではありません。制限することによってその人を守るのです。同じように、ここで制限しているというのは、人間が本当に自由に幸福に生きるためにひつような制限なのです。その制限を捨ててしまうとその人は、外からの悪い働きに抵抗できなくなってしまいます。自分を守ることができなくなるのです。神様は最初の人間アダムとエバを作られた時、二人をエデンの園に置かれました。エデンの園でアダムとエバは神様との豊かな交わりを楽しんでいました。神様の祝福と神様の守りの中で生きていました。ところが、二人が神様の戒めを破って、神様との交わりが壊れてしまったとき、彼らは自分が裸であることを悟りました。彼らが裸であることは、彼らが霊的に無防備であることを表していると思います。それまで二人は神様によってすっかり覆われ守られていたので、裸であることに気がつかなかったのです。しかし、彼らは、その神様の守りの手を捨ててしまいました。彼らから生まれたすべての人間は、この無防備の中でこの世に生まれて来ることになってしまったのです。イエス様も、地上での働きをしておられるときに、群衆を見て彼らをかわいそうに思われたとマタイは書いています。それは、人々が、羊飼いのない羊のように無防備になって弱り果てていたからです。私たちが、神からの言葉、ビジョンを持たずに生きるならば、聖書に記されているように、様々な悪や誘惑から自分を守ることができず、自分の欲望に縛られて生きる者となってしまうのです。
(2) 神のビジョンを持って生きる時
 箴言29章18節の言葉には後半があります。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」神様からの声、ビジョンが亡くなるとき、あるいは私たちが神様の声やビジョンに背を向けるとき、私たちの生活は無防備で自分でコントロールができない状態になってしまいます。しかし、逆に、私たちが神様の言葉を大切に持ち、その言葉を聞いて行う生き方をするとき、私たちは本当の幸せを経験できると聖書は約束しています。私たちは、神様のビジョンを持って生きるとき、なぜ幸せになれるのでしょうか。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」別の訳では「民は滅びる」と書かれています。この言葉は神様のどんな心を表しているでしょうか。神様は、幻がない民が滅びることを望んでいるのでしょうか。そうではありません。神様は、私たちが一人も滅びることを望んではおられません。人々が悔い改めて神の民としていつまでも神とともに生きること、これを神様は願っておられるのです。イエス様が十字架にかかる前に、エルサレムに入られましたが、その時はユダヤの祭りがあったため、町はひどく混み合っていました。イエス様は、その時に、罪に縛られて生きている人々があふれているエルサレムを見て涙を流されたのです。十字架の上からも人々の罪を赦す祈りをされたイエス様は私たちが神様の前に悔い改めて、神様のところに戻ってくることを強く願っておられるのです。神様から私たちに与えられているメッセージ、ビジョンは神様の愛を伝えているのです。神の敵として歩んでいる私たちに、聖書に従って生きる道、永遠に神とともに平安の中を生きる道を伝えているメッセージであり、ビジョンです。イエス様が言われたように、主はぶどうの木で、私たちはその枝です。枝はぶどうの幹につながっていれば多くの実を結びます。しかし、幹から切り取られてしまったら、土からの水分や栄養が届かず、枝は実を結ぶことなく死んでしまいます。私たち人間は、ぶどうの枝のように、神様から離れてしまうならば、どんなに自分のうちに実を結ぶ力を持っていても実を結ぶことなく死んでしまうのです。しかし、神様にしっかりつながっていれば、自然に豊かな実を結びます。私たちが、神様からのビジョン、言葉に従って生きる時、私たちの人生は永遠に消えることのない実を結ぶ人生となるのです。
 29章18節の御言葉をもう一度読みましょう。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」ここにふたつの言葉が含まれています。幻、すなわちビジョンと律法です。神様から与えられるビジョンと律法、これは新約聖書の時代を生きる私たちにとっては、律法は神様の御言葉であり、ビジョンは聖霊による御言葉の働きと言えると思います。神様からのメッセージが、実際の私たちの生活の中に働くのです。私たちは、なによりも神様の言葉に心を開いて聞き、それに従って生きることが大切です。私たちが心から真剣に御言葉に従って生きる時、聖霊が私たちのうちに働くのです。私たちの心を悔い改めに導くのも、また、自分の人生を神様のために生きようと決断するときも、聖霊が私たちのうちに働くのです。この世は、自分たちの目標としてのビジョンを語ります。しかし、聖書は神様からのメッセージとしてのビジョンを語ります。私たちが御言葉に従い、聖霊の働きに導かれる時、私たちの思いを遙かに超えた人生を生きるようになるのです。
 D.L.ムーディーという人がいます。彼は救われてから伝道の働きに加わっていたのですが、神様からのビジョンを受けずに過ごしていました。ある時、イギリスでであった伝道者から聖書をもっと深く読むようにとチャレンジを受けました。それからしばらくして彼はサラ・クックという女性から聖霊の力に委ねるようにというチャレンジを受けました。初めは、その女性の言葉に反発を感じたムーディーでしたが、それから彼女の言葉を受け入れて、聖霊の働きを求めて祈り始めました。ある日、彼は神様が自分とともにおられるという強い感覚を感じました。彼は急いで近くの友人の家に行って部屋を借りてその中で神様と1対1で祈り始めました。その祈りの中で聖霊の力が働きました。そこで神様の臨在と神様の愛を強く感じたムーディーは変わりました。その時から、彼はイエス様のように失われた人々を救いに導きたいという情熱を与えられ、彼の働きによってアメリカとイギリスで大勢の人々が救いに導かれました。神様の御言葉、ビジョンをしっかり持って生きるとき、人は新しく生きる者となり、実を結ぶ人生を生きることができるのです。



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