2005礼拝めっせーじ

礼拝説教01/02|メッセージ2003メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000メッセージ2004

メッセージ2005


礼拝説教 2005-01-02『最初の約束』(創世記3章14-15節)
(イントロ)
 今日は2005年最初の礼拝です。どんなことでも最初というのは気持ちがいいものです。これからのことに期待が膨らみます。今朝読みました創世記の3章は有名な章です。神様によって造られた最初の人間アダムとエバが神様の命令に背いて食べてはならない木の実を食べたためにエデンの園を追放されるという出来事が書かれています。誰でも、創世記3章は神様の裁きが書かれた章だと考えるのですが、実は、そこには、神様のさばきだけではなく、神様の約束も記されているのです。神様が私たち人間のために行われた最初の約束です。今日は、神この約束が私たちにとってどんな意味があるのか考えたいと思います。
(1) 人間の本来の状態と堕落
 聖書には、神である主は「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」と書かれています。すべての人は、神様によって生きる目的と生きる意味を与えられて、この世に生まれて来たのであって、偶然に生まれた人は一人もいません。ただ、最初の人間が作られたときの人間を取り巻く状況と、今私たちが生きている状況はすっかり変わってしまっています。聖書の最初の本である創世記によると、最初の人間は神様によって創られ、そして神様と楽しく交わることのできるエデンの園に住んでいました。神様は、エデンの園に人間が生きていくために必要なものを全部備えてくださいました。最初の人間アダムとエバは、ちょうど、幼子が母親の胸に抱かれているときに完全に安心しきっているように、神様との交わりの中に置かれて、完全な平安を味わっていました。
 しかし、自由な意思やものごとを選ぶ力を神様から与えられていた人間は、それを間違って用いてしまいました。神様から「命令に従わないと必ず死ぬ」と警告を受けていたにもかからず、アダムとエバは神様の命令に背いてしまいました。自分のそむきの行為によって、二人は考えても見なかった大きな結果を引き起こしてしまいました。神の命令に従わないことを聖書は罪と呼びますが、アダムとエバは自分たちが犯した罪によって、まず神様との交わりが切れてしまいました。神様は完全に聖なる方ですから、罪を持ってしまった人間と交わることができないのです。その結果、人間は、親の手から引き離されて迷子になった幼子のように、言葉で表せないような不安を感じて生きるようになってしまいました。また、神様の力強い守りから離れてしまったために、人は自分で自分を守ることができな無防備な状態になってしまいました。さらに、アダムとエバが、禁じられていた木の実を食べた後、自分たちが裸であることを恐れ、恥だと感じましたが、それは人間が心の奥に持っている罪悪感を表しています。人は罪を犯した自分を見ると自己嫌悪に陥ってしまいます。自分が惨めに見えます。私たちが、自分が惨めな人間であると感じたり、自分の価値を見出せずに悩んだりすることが多いですが、そこにはいろいろな要因が関係しているとしても、もっとも深いところにあるのは、アダムとエバから受け継いだ罪悪感があるのです。
(2) 神様の呼びかけ
 エデンの園は美しいところでした。人間に必要なものが全部備わっていました。そしてアダムとエバは園を歩き回られる神様と直接交わるという特権を持っておりました。エデンの園は、人間が本来生きるべき場所です。私たち人間は、神様と自由な交わりを持って喜びと平安の中で生きるように創られているのです。ところが、アダムとエバの罪によって人間と神様の交わりが切れてしまったことが、歴史を通じてずっと人間を苦しめ続けているのです。私たちが今住んでいる世界は、不法がはびこり、愛が冷え切ってしまって殺伐としています。しかし、実は、この世界は、私たちが住むべき本当の世界ではないのです。
 神様の警告を無視して、自分勝手な行動をした人間は、これまで楽しんでいた神様との交わりを恐れるようになりました。神様が近づいて来られるのを感じたアダムとエバは神様から身を隠しました。神様の目に何も隠せないのに、二人は神様から離れようとしています。そんなときに神様がアダムとエバの二人に尋ねられた最初の質問は「あなたはどこにいるのか」という質問でした。この質問自体、人間が神様から離れてしまっていること、神様が備えてくださったすべての良いものから離れてしまっていることを表しています。預言者イザヤは、そのような人間のことを次のように言いました。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」羊飼いから離れた羊は、大変危険です。自分を守る武器を持っていない羊は狼などにすぐに襲われてしまいます。また、羊がいったん道に迷ってしまうと、羊飼いが探して見つけ出さない限り、自分で正しい場所に行くことができません。私たち人間は、神様から離れて生きるならば、道に迷った羊と同じなのです。私たちが、この世で生きるときに、苦しみや悲しみや悩みが多いのは、私たちが、本来いるべき場所にいないからなのです。
そんな神から離れてしまった人間を、神様は探してくださるのです。本来いる場所にいない私たちを「どこにいるのだ?」と呼びかけておられます。人間が、自分勝手な思いで神様に背いたのですが、そんな人間を探し出してくださるのです。しかし、そのような神様の呼びかけに対しても、一度罪を犯した人間の心は硬くなったままです。アダムとエバは神様の呼びかけを聞いたときに、神様に対して謝ることができました。アダムもエバも「私が悪かった」という言葉を決して言いません。もちろん、神様は二人がしたことを全部知っておられました。しかし、神様は二人を叱る前に、彼らに質問をして、彼らに自分が犯した罪を反省するチャンスを与えておられるのです。ところが、二人とも決して自分の非を認めません。むしろ、アダムは裸の体を見て、こんな体に自分を創った神が悪い、自分の横にいるエバが悪い、また、そんな女を横に置いた神が悪いと、自分が行ったことを忘れて、責任を他の人間や神様になすりつけているのです。これが罪を持った人間の姿です。元々、神様の姿に似せて創られた人間です。神様が持つ能力や良いものをたくさん与えられていたのに、罪が入ってしまったために、それらはゆがんでしまって、正しく用いられなくなりました。薬も間違って使えば毒になるように、人間が与えられた能力は、間違って用いられるようになったために、一人一人の人間だけでなく、人間が住む社会全体が自己中心という罪に支配されるようになってしまったのです。ひとつの罪が与える結果はあまりにも大きなものでした。
(3)神の最初の約束
 しかし、神様は、こんなにも心がねじれてしまった人間であっても、決して見捨てることはありませんでした。私たちは自分がいやなことをするような人と交わりを持ちたいとは思いません。しかし、そんな惨めな人間に神様は限りない愛を注いでおられます。神様は、アダムとエバが神の命令に背いた時から、私たち人間を、堕落してしまった状態から本来の状態へ戻すための働きを始めておられるのです。3章の14から、人間が犯した罪に対する神様の裁きが記されています。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。」神様の裁きはアダムから始まったのでもなくエバから始まったのでもありません。蛇から始まっています。蛇は、人間を神から引き離し罪の支配の中に入れようとする悪魔をあらわしています。神様の命令に背いて食べてはいけない木の実を食べたのはアダムでありエバなのですが、神様が「お前がこんなことをした」と言われたのは蛇に対してでした。神様は、アダムとエバの罪の裁きをすべて蛇に負わせておられます。人間の堕落の根本原因は蛇、すなわち、悪魔にあったからです。神様は、人間が犯した罪の問題をご自分が引き受けられて自分と蛇によって表される悪魔との間の問題としてくださったのです。そして、この悪魔と戦うことを決意されているのです。
 15節で神様は「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」といわれました。ここで神様は「女の子孫」と言われましたが、この言葉は単数形です。つまり一人の方を意味していますが、これは救い主イエス・キリストを表しています。人間が犯した罪の結果、人間は神の交わりから離れてしまったのですが、神様と人間の関係を回復するための計画を、神様はすでに始めておられるのです。この創世記3章15節は、旧約聖書の中で最初に出てくる救い主キリストに関する預言です。人間の罪の問題を解決するために、神様はご自分と悪魔との戦いを計画されました。人は、罪を犯してしまったのですが、人は自分の罪を自分の力で解決することができません。人間にできないことを神様が代わりに行って下さるのです。15節で悪魔は「救い主のかかとに噛み付く」と預言されています。これは、救い主イエスが地上の生涯と十字架の上で受けられた苦しみを表しています。完全に聖なる方である救い主イエスにとって、すべての人間の罪を背負って十字架にかかることは、肉体的なことよりも、精神的に霊的に非常に大きな苦しみでした。しかし、救い主イエスは、その道をご自分で選ばれました。かかとに噛み付くことは大きな痛みを伴いますが致命傷ではありません。一方、救い主イエスは悪魔の頭を踏み砕くと約束されています。頭を踏み砕くことは致命的な傷を与えます。救い主イエスは、十字架の苦しみを全部味わうことによって、そして、三日目に死から復活されたことによって、悪魔の頭を完全に踏み砕かれました。主イエスの十字架が自分の罪が許されるためのものであったことを信じるすべての人は、もはや悪魔の声を恐れる必要はありません。すでに、私たちの罪の問題はすべて解決済みなのです。悪魔は私たちの罪を責めます。しかし、救い主はその悪魔のかしらを踏み砕かれたのです。神様は、神様の命令に背いたアダムとエバに対する裁きを宣告する前に、まず悪魔に対する裁きを宣告されました。そして、その宣告をアダムとエバに聞かせられたのです。アダムとエバは、確かに、自分が犯した罪に対して責任を負わなければなりませんでした。しかし、神様は二人に、罪の支配と罪の裁きから救い出される方法があることをはっきりと示されたのです。
 アダムは、その神様の約束を信仰によって信じました。ですから、彼は、神様の宣告を聞いた後に、20節で次のように言っています。「人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。」もし、神様が二人の罪の結果から救い出される方法を考えてくださらなかったら、エバが「すべて生きている者の母」になることは不可能です。エバは「すべての死ぬべき者の母」と呼ばれなければならなかったはずです。また、神様は言葉による救いの約束をしてくださっただけではありません。実際的に、神様はアダムとエバを救いました。アダムとエバは神様の命令を破ったとき、自分が惨めな罪びとであることに気がつきました。二人は大きな恥を感じて彼らはイチジクの葉で裸の体を覆いました。この姿は自分の罪を隠そうとする人間の心を表していますが、イチジクの葉は、人間の恥を覆うのにまったく役にも立ちません。しかし、そんな二人のために、神様は羊の毛皮の衣を準備してくださいました。羊の毛皮はイチジクの葉と違って、少しの雨や風であれば、充分にその毛皮を着ている人を守ります。しかし、毛皮を用意するためには羊を殺さなければなりませんでした。主イエス・キリストは「世の罪を取り除く神の子羊」と呼ばれました。自分の罪の恥をどうすることもできない人間のために、神様はご自身のひとり子イエス・キリストのいのちを取り、罪を完全に解決する道を開いてくださいました。神様に反抗して約束を守らなかったアダムとエバのために、その恥をすっかり覆いつくす毛皮の衣を作ってくださいました。
私たちは、皆、アダムとエバの子孫として、罪の性質を持ってこの世に生まれてきました。その性質のために、私たちの罪を責め立てる悪魔からかかとを噛み付かれるような痛み、苦しみを経験することがあります。しかし、神様はそんな私たちを守り導き、最終的に永遠の救いに入れてくださる約束を私たちのために与えてくださいました。救い主の十字架と復活によってそれが実現したのです。
 最後に詩篇73篇を読みましょう。「私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。」神様は、創世記3章の約束を決して忘れることなく、その約束を変えることなく、神を信じるすべての者を、この世に生きるときに導いてくださり、最終的に神様の栄光のうちに受け入れてくださるのです。私たちは2005年という新しい年、この約束をしっかり握って信仰の道をまっすぐに進んで行きたいと思います。



ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。)