2005礼拝めっせーじ

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メッセージ2005


礼拝説教 2005-01-09『バプテスマのヨハネ』(マタイ3章1-12節)
(イントロ)
 マタイの福音書2章に記されている主イエスの子供時代の出来事から今日読んだ3章の間には約30年の隔たりがあります。福音書というのは主イエス・キリストの伝記ではありません。伝記であれば、主イエスの誕生後の少年時代、青年時代の事も書かれているはずですが、4つある福音書の中で、ルカの福音書は主イエスが12才になられたときに、マリヤとヨセフがユダヤ人の習慣にならって主イエスをエルサレムの神殿に連れて行った出来事をしるしていますが、それ以外のことについては何も書かれていません。それは、福音書はただ主イエスの生涯を描くのが目的ではなく、罪を持ち罪に縛られて生きている人間が救われる道があるというメッセージを知らせるための書物だからです。主イエスは30才の時に神の子としての公の生活を始められました。公の生活の始まりとなった出来事は主イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたという出来事でした。今日の箇所は、イエスの洗礼という重要な出来事の準備の働きをしたバプテスマのヨハネについて書かれているところです。
 ルカの福音書によると、ヨハネが公の場所に現れたのはローマ皇帝テベリオの第15年だと書かれています。テベリオがアウグストを継いでローマ皇帝になったのは紀元14年ですが、その2年前から副皇帝として地方を治めていました。その2年を含めるとすれば、ヨハネが活動を開始したのは紀元26年頃だと考えられます。彼は荒野で生活し、その生活スタイルは独特のものでした。彼は「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」とマタイは記しています。彼の服装はきびしい自然環境である荒野での生活には適した服装で長持ちするものですが、決して着心地の良いものではありません。また、彼の食事も服装と同じように非常に質素なものでした。ヨハネは別に、人々にそのような生活をすること要求したわけではありません。彼の弟子達も、ヨハネのような服装や食事はしていませんでした。ただ、バプテスマのヨハネの生き方は、当時、権力も財力も手にしていて、自分の言動が正しいと思いこみ、非常に傲慢になっていた宗教のリーダーたちに対するチャレンジであったと思います。旧約聖書の時代から、宗教の指導者たちはかなり腐敗していました。彼らは自分たちは神から選ばれた特権階級だと思いこみ、聖書を読んだり、学んだり、宗教的な活動をしている自分たちは正しい人間だと思いこんでいたのです。彼らは人前で大きな声でお祈りをするのが好きでした。人々から敬虔な信仰者と見られることを望んでいました。彼らはいつも立派な服装をしており、豊かな生活をしていました。しかし、人の目をごまかすことはできても神の目をごまかすことはできません。預言者であるバプテスマのヨハネは当時の宗教家たちの堕落、傲慢を見抜いていました。彼は、神様の前で純粋な預言者として生きることを願って、自分の生活を捨てて、荒野に中で厳しい生活をしていたのでした。
 
(1)バプテスマのヨハネの働き
 バプテスマのヨハネは旧約時代の最後の預言者と言われていますが、その使命は、救い主が来られることを世の人々に告げ知らせることでした。昔、王様がある場所を訪問する場合、先に使者が送られました。それは、訪問先の人々が王様を迎える準備をきちんとするためでした。王様が通る道に穴があれば、その穴は埋められ、石ころがあれば取り除かれました。バプテスマのヨハネの使命は、救い主イエスが来られることを人々に知らせて、人々が救い主をお迎えするように心の準備をさせることでした。救い主イエス・キリストがこの世に来られる前に、使者が使わされることは旧約聖書にはっきりと預言されていました。それはイザヤ書40章3節の言葉です。「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」昔、王様を迎えるために、人々が道路の穴を埋めたり、道路に落ちている石ころを取り除けたように、バプテスマのヨハネは、人々に、救い主をお迎えする心の準備をするように命じています。彼のメッセージのポイントは2つです。ひとつは神の国が近づいたということです。神である救い主イエス・キリストが私たち人間を救うために、ご自分が天において持っておられたすべての栄光を捨ててこの世に来てくださいました。救い主がこの世に来られたのは、私たちの罪を私たちの代わりに全部背負って、十字架でその罪の罰をすべて引き受けるためでした。主イエス・キリストの十字架があったので、私たちは自分の罪を赦してもらい、神と交わりを持って生きることができるようになりました。神ご自身が私たちのところに来てくださったのです。バプテスマのヨハネは、そのことを「神の国が近づいた」と表現しました。そして、彼は、神の国が近づいたときに、私たちがしなければならないことは「悔い改める」ことだと宣言しました。
 「悔い改める」とは、「心を変えることであり、その心の変化に基づいて行動すること」を意味します。ですから、ただ単に、自分の過去の言葉や行動を後悔したり、嘆いたりするだけでは悔い改めとはいえません。「悔い改め」を意味するギリシャ語は、メタノイアと言うのですが、これは元々「Uターンする」という意味の言葉でした。今まで、自分の考えや感情に従って生きていた生き方を180度方向転換して神様の教えや御心に従って生きる決心を自分の生活の中で実行することです。バプテスマのヨハネの説教は大勢の人々の心に迫りました。うわさが広まり、ユダヤ地方各地から大勢の人々が続々と集まって来ましたが、その中に、パリサイ人やサドカイ人たちも含まれていました。パリサイ人もサドカイ人もユダヤ教の中でも伝統を重んじる人々でした。彼らは、聖書に書かれていないような生活のルールを作って、その教えを守ることに一生懸命でしたが、彼らは自分たちは宗教に熱心な正しい人間だと思い込んでいました。また、彼らは宗教的な指導者であるだけでなく政治的指導者でもありましたし、エルサレムの神殿で行われるビジネスも彼らが支配していました。彼らは表面的には熱心に信仰しているように見えましたが、心は神の教えから離れ、神様に対する愛も周囲の人々に対する愛も欠けていました。バプテスマのヨハネは彼らも大勢の群集と一緒にやってくるのを見ると非常に厳しい言葉で語り始めました。
 バプテスマのヨハネは彼らに言いました。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」預言者とは、人間に対する神様のメッセージを預かり、それを語るように命じられている人々です。多くの場合、預言者は神様の厳しいメッセージを大胆に語ったため人々から憎まれました。このときも、バプテスマのヨハネは相手がどんな権力や富を持っているとしてもまったく気にかけずに、彼らにストレートに神のさばきを語っています。ヨハネは彼らに「あなたたちがこの世でどんな立場に置かれていても関係ありません。あなたたちも、悔い改めなければ神の裁きから逃れることはできません。」と語りました。パリサイ人もサドカイ人も自分たちはアブラハムの子孫だから、アブラハムの血を引いているから、神の裁きに会うことはないという間違った選民意識を持っていました。自分たちは神様から選ばれた特別な民族だと考える間違った考えのために、彼らは心からの悔い改めができていませんでした。
 バプテスマのヨハネは神の前にパリサイ人もサドカイ人も関係ないと訴えています。あなたは神を信じる前に心から自分の罪を悔い改める決断をしているかどうかをたずねているのです。最初に言ったように、福音書は普通の伝記とは違います。福音書とは読む人々にいつも尋ねる書物です。「あなたは罪を悔い改めて神様を信じますか。」という質問です。その質問は、お金がある人にもない人にも、権力を持っている人にも持っていない人にも、教養のある人にもない人にも、すべての人に向けられている質問です。普通、人は自分の個人的な面に触れられるのを嫌がります。主イエスがあるとき、サマリヤの町で一人の女性と出会いました。彼女は結婚生活が乱れていました。主イエスが、その女性の個人的な問題に触れると、彼女はすぐに話題を変えて、サマリヤ人とユダヤ人の争いという一般的な問題について話そうとしました。聖書のメッセージは、一般論として語るためのメッセージではありません。あなたはどうなのかと個人的に迫ってくるメッセージです。
 3節でバプテスマのヨハネは「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言っていますが、荒野は、私たちの自己中心に満ちた心を表していると考えられています。私たちの心の中にはプライドで高くなったところもあれば、わがままな心のために曲がってしまった道もあります。主イエス・キリストを信じる者は、まず、自分の心が荒野のような状態であることを知らなければなりません。そして、そのままでは、神のさばきを受けなければならないことをも知っておかなければなりません。神を信じて生きようとする人は、自分の心をまっすぐにしようとする心がなければなりません。自分の言葉や行いが曲がっており、神様の心をひどく傷つけていることを知らなければなりません。そして、自分の心には主イエスキリストを迎える必要があることを心から認めることが必要です。そのような心を持っている人々のところに、救い主が来られるのです。
 ヨハネは「神の国が近づいた」と宣言しました。彼は言いました。「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」ヨハネが行っていたバプテスマは悔い改めのバプテスマでした。しかし、主イエス・キリストは悔い改める人々に聖霊と火とのバプテスマを行ってくださる方です。悔い改めて主イエスを信じる人々に、イエス・キリストは新しい力を与えてくださいます。神様の約束は、聖霊が私たちのうちに働くときに新しい力が働きます。私たちは自分の力の限界を超えることができるようになるのです。主イエスの弟子たちも、聖霊の力を受けたときに、それまでは人々を恐れていたのに、そのような恐れはすっかり消えて、大胆に主イエスのことを語り始めました。火は精錬するものです。混じったものを溶かして純粋なものを生み出します。心から悔い改めて主イエス・キリストを信じて生きる者の心を、ちょうど火が金属を精錬するように、純粋なものにつくり変えてくださるのです。
 私たちは、悔い改めないままでは神の裁きからのがれることはできません。どんなにこの世で力があっても金があっても知識があっても悔い改めない人は神の裁きを受けなければなりません。しかし、主を信じるために自分の心をまっすぐにしようと決心して生きる者には、聖霊が働いて新しい力ときよさが与えられます。あなたは主イエス・キリストを信じる心の準備ができているでしょうか。


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