2005礼拝めっせーじ

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メッセージ2005


礼拝説教 2005-01-16『イエスの洗礼』(マタイ3章13-17節)
(イントロ)
  ルカの福音書を見ると「主イエスはおよそ30才で、神の子としての教えを始められた」と書かれています。そして、主イエスは、その働きを始められる時にバプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。ベツレヘムで生まれナザレで30才まで過ごされた主イエスの地上生活の30年間は、これから始まる神の子としての生活につながる準備の期間だったと言えます。この時まで、主イエスは母マリヤ、ヨセフ、兄弟たちとナザレに住んでおられました。人の目につかない隠れた生活だったといえます。主はご自分がどういう目的でこの世に来られたのか、ご自分の使命をはっきりと知っておられたので、ナザレでの生活の間、主は絶えず神の子としての働きを始める時を待っておられたと思います。そして、ついに、その時が来ました。いよいよ主イエスが人々の前に現れて、人々を罪のさばきと罪の支配からの救いをもたらす時が来ました。そこで主イエスは住み慣れたナザレの家を出られたのですが、主はエルサレムの神殿に行かれたのではありません。バプテスマのヨハネが罪の悔い改めの洗礼を授けていたヨルダン川へ行かれました。神殿は神が住まわれる場所です。神の栄光が表された場所です。人々は神様を礼拝するために神殿に出かけていました。しかし、主イエスは、神の子としての働きを始めるときに、まず悔い改めの洗礼が行われている場所へ行かれたのです。主イエスが洗礼を受けられたことは、私たちに何を教えるでしょうか。今日はそのことを共に考えたいと思います。
(1) イエスの洗礼
 主イエスはヨルダン川で洗礼を授けているバプテスマのヨハネのところへやって来ました。ヨハネの福音書を見ると、主イエスの姿を見たときに、バプテスマのヨハネは「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」と叫びました。預言者ヨハネは、主イエスが誰であるかを知っていました。主イエスは、この世の人々を罪の裁きと罪の支配から解放するためにこの世に来られた神の御子であることを知っていました。ですから、ヨハネは、自分から洗礼を受けようとする主イエスに向かって、「私こそがあなたから洗礼を受けなければならない者です。」と言って、主イエスに洗礼を授けることを拒みました。
ヨハネが人々に授けていたのは罪の悔い改めのバプテスマでした。バプテスマのヨハネ以前は、ユダヤ人が洗礼を受けることはありませんでした。旧約時代のユダヤ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫であり、神に選ばれた特別な民族だから、罪の許しを神様から受ける必要はないと考えていました。外国人は罪深いから、悔い改めの洗礼を受けなければならないが、ユダヤ人には洗礼は必要なかったのです。しかし、主イエスが神の子としてこの世に来られたとき、救い主の到来を人々に知らせるという使命を受けたバプテスマのヨハネはユダヤ人にも罪の悔い改めを迫ったのです。彼のメッセージを聞いて、自分の罪深さを示された大勢の人々が悔い改めのしるしとしてヨハネから洗礼を受けていました。ヨハネは、自分の目の前に立っているのが罪を持たない聖なる神の御子であることが分かっていましたし、また、彼は自分も一人の人間として罪を持って生まれた者であり、神様の前に悔い改めなければならない者であることを知っていました。ですから、バプテスマのヨハネは主イエスに洗礼を施すことを拒否したのです。
バプテスマのヨハネはパリサイ人やサドカイ人が来たときも洗礼を授けることを拒否しましたが、そのときは、彼らが本当の悔い改めをしていないことを知っていたからでした。しかし、主イエスに対しては、ヨハネはまったく反対の理由で拒否したのです。主イエスは洗礼を受ける必要のない方であることを知っていたからです。
 それに対して、主イエスはバプテスマのヨハネに言いました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」。ヨハネが「イエスこそ人々に罪の許しの洗礼を授けるべきお方である。」と述べたことに対して、主イエスは、彼の言葉を否定していません。ただ、「今はそうさせてもらいたい」といわれました。主イエスが言われたかったことは、「自分が洗礼を受けることはふさわしくないことのように見えるかもしれないが、今という特別なときにはふさわしいことなのだ」ということでした。そして、主は、バプテスマのヨハネが主イエスに洗礼を授けることは正しいことであり、ふたりにとってふさわしいことだと言われました。主イエスは、すべての点で私たちと同じでしたが、罪は犯されませんでした。それなのに、なぜ、主は洗礼を受けるためにヨハネのところへ来られたのでしょうか。ひとつには、主は、人々に従順に従うことの模範を示されたのだと思います。イエスは、神の御子としてこの世に来られましたが、人間の親であるヨセフとマリヤには従順に仕えられたとルカの福音書には書かれています。主は神の子としての権利を主張されることはありませんでした。また、あるとき、主は、カペナウムの町で、人々から「神殿への納入金を納めない」と批判されたことがありました。カペナウムの人々は主イエスが誰であるかを知らなかったために、そのような批判をしたのです。主イエスこそ、礼拝を受けるべき神の御子ですから、礼拝に必要な費用を支払う必要はまったくありません。しかし、礼拝を受けるべき主イエスは、弱い人々への配慮として、彼らをつまずかせないために、神殿への納入金を納められました。このように、主イエスは神の御子としての特権を主張せず、むしろ権威に対して従う姿勢を取られました。主イエスがヨハネから洗礼をお受けになったことも、私たちに対する手本であり、私たちも主イエスのように、自分の権利を主張する前に、従順に従う心を持たなければなりません。
 主イエスが洗礼をお受けになったもうひとつの理由としては、主が罪びとたちと同じ立場を取られたということが考えられます。ヘブル人への手紙2章17節に「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです」と書かれています。主イエスは哀れみ深い忠実な大祭司となられたと書かれていますが、旧約聖書の時代、大祭司は人々と神様との間の仲介者の務めを持っていました。大祭司は、人々の罪が赦されるために、旧約聖書の言葉に従って、動物をささげて神に祈っていました。今、神様と人間の間に立って、私たちの罪が赦されるように祈り働いてくださるのは主イエスです。主は、そのために、私たちと同じ姿を取られました。私たちと同じ弱さをもってくださいました。全能の力を持ったお方ですが、私たちと同じように、空腹を感じ、疲れを感じる体を取ってくださいました。また、私たちが受ける苦しみを受けてくださいました。私たちとまったく同じ立場に立ってくださったから、私たちを救うことができるのです。罪は犯されませんでしたが、私たちと同じ弱さ、苦しみを受けられたので、私たちの気持ちを完全に理解し、私たちを助けることができるのです。主イエスは、わたしたちのための哀れみ深い忠実な大祭司なのです。私たちの人生にはいろいろな悩みや苦しみがあります。しかし、私たちにはいつも、私たちと神様の間で仲介者の働きをしてくださるイエス様がいます。その方に、祈りを通して直接話しかけることができるのはクリスチャンにとって大きな特権です。主イエスが洗礼を受けられたことは、主イエスが、すすんで私たちと同じ立場になろうとしれおられる主イエスの気持ちが現れています。
 また、主イエスの洗礼にはもうひとつ意味があると思います。主の洗礼は、主の十字架と復活を表すシンボルでもあるのです。主イエスはご自分の洗礼については2回しか語っておられませんが、その2回とも十字架の死と関連して語っておられます。1回は説教の中で言われた言葉です。「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」(ルカ12:50)もう1回は弟子のヨハネとヤコブが自分たちに高い地位を与えてほしいとお願いに来たときに、主イエスが言われた言葉ですが、「わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」(マルコ10:38)という言葉でした。イエスは、罪びとである私たちと同じ立場に立たれたのですが、それがもっともはっきりしたかたちで現れたのが十字架の死であったのです。このようにして主イエスは、罪のない方でしたが、洗礼をお受けになりました。
(2) 聖霊が下り、天から声が聞こえた。
 主イエスが水から上がられたとき、天が開けて、聖霊が、はとの姿をとってイエスのうえにとどまりました。天が開けたことは、主イエスによって私たちも店に入る道が開かれたことを示しています。主イエスが十字架のうえで私たちの罪を全部背負って身代わりの死を完了されたとき、エルサレムの神殿の中にかかっていたカーテンが上から下へ真っ二つにさけました。そのカーテンの奥は神が折られる場所だと考えられていて、大祭司が年に一度入ることが許されていましたが、普通の人は誰も入ることはできませんでした。罪に汚れた人間は聖なる神の前にそのままでは立てないのですが、主イエスの十字架が人と神とを隔てていたカーテンを引き裂いたのです。同じように、救い主が働きを始めるときに天が開けたことも、私たちが天に入る道が開かれることを表しています。また、聖霊が鳩の姿をとってイエスの上にとどまりました。鳩の姿をとったということにも意味があるように思います。鳩は平和ときよさのシンボルでもありますが、ユダヤ人にとっては罪の許しを願うときにささげるいけにえの動物でもありました。裕福な人は牛や羊をささげていましたが、貧しい人は鳩をささげたのです。主イエスは、私たちの罪をゆるすために、ご自身の命をささげてくださった方です。また、主イエスのうえに聖霊が下ることは預言者イザヤが預言していました。イザヤ書11章1−5節を読みましょう。主イエスは人間的に見ると新芽あるいは若枝のように弱弱しく見えるかもしれません。ベツレヘムの馬小屋で生まれ、ナザレで一労働者として成長されました。しかし、そこに全能者である神の霊がやどっておられるのです。それは「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」と書かれています。知恵に満ちた方である主イエスは決して外見で裁く方ではありません。事実の本当の姿を見てくださる方です。主イエスは正義と真実を帯としておられると書かれています。帯はきものをまとめるために必要なものです。キリストはすべて面において正義と真実に満ちておられる方です。
 聖霊が鳩のように下った後に、天から父なる神の声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」神ご自身が主イエスを「わたしの愛する子」と呼ばれ、また、「わたしは主イエスを喜ぶ」と言われました。これは主イエスこそ神の御子であり、わたしたちを罪から救う救い主であることを父なる紙が断言されている言葉です。人間は誰も完全に神を喜ばせることはできません。しかし、主イエスは完全に神様の心にかなう方です。主イエスが言われたように、私たちは、主イエスが十字架で私たちの罪の刑罰を身代わりに受けてくださったことにより、私たちも主の目に受け入れられる者となるのです。
主は洗礼を受けて神の子としての働きを始められました。私たちにとっても、洗礼は新しい生活のスタートを意味します。水の中に沈むことは私たちの古い自分に一度死ぬことの象徴です。そして、水から出てくることは、主が死から復活されたように、私たちも新しいいのちをもって新しい生活を始めることの象徴です。私たちは、主イエスのように、聖霊に満たしていただいて、鳩のような苦々しさのない柔和で素直な生活を日々歩んで生きたいと思います。


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