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礼拝説教 2005-01-30『主イエスの誘惑』(マタイ4章1-11節)
(イントロ)
前回のメッセージでは主イエスが神の子としての公の働きを始める前に、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことについて考えました。主がイエスが洗礼を受けて水から出てこられたときに聖霊が鳩の姿を取って天から下ってきました。そして、父なる神の声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」この瞬間は、救い主イエスにとってどれほどすばらしい時だったでしょうか。また、周囲にいた人々も、この光景をどれほど理解できたのか分かりませんが、神聖な神々しい雰囲気を感じていたはずです。私たちは、信仰生活の中で特別に神様の働きを強く感じたり、神様の祝福や臨在を肌で感じて心が喜びでいっぱいになるときがあります。そのようなとき、私たちはいつまでもその喜びを感じていたい、その余韻に浸っていたいと考えます。しかし、主イエスは私たちとは違います。主は洗礼を受けた後、すぐにエルサレムの神殿に行って神としての栄光や力を示されたのではありませんでした。主イエスが最初に行われたことは、敵である悪魔の試み、誘惑を経験することでした。誘惑あるいは試みはあまりうれしい言葉ではありません。そこには心の中の葛藤や苦しみがあるからです。しかし、金属が役に立つものとなるためには、精錬されなければならないように、人も、神様の役にたつ人間となるために試練が必要です。金属は火の中に入れられることによって不必要なものが全部解けて、純粋な金属が残ります。筋肉をトレーニングで苦しめると強い筋肉ができます。同じように、人間も試練を通ることによって本当の自分が現れ、また試練によって人は強くされます。しかし、罪を犯すことのない主イエスはなぜ試みを受ける必要があったのでしょうか。それは、主イエスが、悪魔の試み、誘惑にも完全に勝利された勝利者であることを私たちに示すためです。また、私たちに、試みを経験するときにどのようにすれば勝利できるかを示すためでもありました。
主イエスは悪魔の誘惑を受けるために荒野に行かれました。厳しい自然の中で主イエスは40日間断食をされました。主イエスが断食をされたのは祈りに専念するためであったと思われます。40日の断食が終わり、主イエスが空腹を感じられたときに、悪魔は主イエスに対して3つの誘惑を行ったのです。主イエスはすべての点で私たちと同じようになってくださいました。私たちは空腹なとき、疲れているとき、病気の時には、自分の今の状態から開放されることだけを考えがちで他のことまで考える余裕を失ってしまいます。悪魔は、このように私たちが弱っているとき、誘惑にたいする備えができていないときに激しく攻撃してきます。しかし、主イエスは、体は空腹であっても、霊的には備えができていました。主は断食をしながら十分に祈っていたからです。トラと出くわしたときに、トラが人間を見る前に人間がトラをにらむとトラは襲って来ないそうです。それはトラはつねに敵の背中から突然襲い掛かるからだそうです。主イエスが断食をして祈られたように、私たちも悪魔に対して備えるための祈りが必要です。
(1) 人はパンだけで生きるのではない
サタンは主イエスを3回試みますが、最初は「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」という言葉でした。ここで悪魔は最初に「あなたが神の子なら」と言っています。悪魔は主イエスに、神の子なら神の子としての力を見せてみろと誘っています。もちろん主イエスにとって石をパンに変えることは簡単なことなのですが、主イエスは神としての権威や栄光を全部捨ててこの世に来られました。そして、主イエスは父なる神の御心を行うとき以外には、ご自分が持っておられる全能の力を用いることはなさいませんでした。もしも主イエスが、悪魔の誘いにのって、自分の力を用いたとすれば、主イエスが父の御心にそむいて自分勝手な行動を取ったことになります。悪魔の誘惑の目的は、主イエスの空腹を満たさせるためではありません。主イエスに父なる神の御心に疑いを抱かせて、父なる神への従順を妨げることでした。悪魔は、主イエスに向かって「お前は神の子なのに、どうして飢えているのだ?神はお前の必要を本当に満たしてくれるのか。いや、そんなことはない。洗礼の時に天から聞こえた父なる神の声などまったくのうそなんだぞ」と言っているのです。主イエスの父なる神への信頼を打ち砕こうしています。
しかし、主イエスはご自分が父なる神の御心に従ってこの世に下ってきたこと、そして自分がこれから十字架という大きな働きをしなければならないことをはっきりと知っておられました。あるとき、主イエスは弟子たちに向かってこういわれたことがあります。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」主は、ご自分が父なる神から使命を受けてつかされた者であると考えておられます。そして、その使命を果たして生きることが自分の生きる原動力だと言っておられるのです。これはすべてのクリスチャンに当てはまることです。クリスチャンは神様から何かの使命を受けてこの世に生きる者とされました。自分の生活だから自分の好き勝手に生きるという生き方には神様の祝福がありません。神様の祝福がない人生は本当に幸いな人生ではないのです。悪魔の誘惑に対して、主は有名な言葉で答えておられます。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」この言葉は旧約聖書のモーセの言葉からの引用です。主イエスが受けられた3つの誘惑に対して主は3回とも旧約聖書の言葉を引用して答えておられます。主が引用された言葉はモーセの言葉です。モーセの時代に、イスラエルの民が罪を犯したために40年間荒野をさまよったのですが、その時に、神様が反逆の民である彼らにマナという不思議な食べ物与えて養い続けてくださり、また40年の間、彼らの着物が擦り切れることもなく、彼らの足もはれ上がることがないように神様が守ってくださいました。モーセはイスラエルの人々がそのことを思い出すように語った言葉です。神様は私たちに何が必要なのかよく知っておられます。そしてその必要を満たすことのできるお方です。主イエスが言われたのは、私たちの人生でもっとも大切なのは食べ物ではなく、私たちに本当の生きる力を与えるのは神様であるということなのです。ですから、私たちの人生において、どんなときもこの神様を信頼することができます。また信頼しなければなりません。
(2) 神を試みてはならない
第一の試みに失敗した悪魔は主イエスをエルサレムの神殿の屋根に連れて行きました。エルサレムの神殿は町の東側に立っていましたが、町の東側にはケデロンの谷があって、神殿の東側は急に低くなっていました。最初の誘惑では、主イエスが40日断食をした後で空腹を感じておられたので、誘惑の材料はあったのですが、今度はそのようなものはありません。第一の誘惑のときに主イエスが聖書の言葉を使って反論されたので、今度は悪魔自身が聖書の言葉を引用してイエスを誘惑するために用いています。悪魔がイエスに言っていることは、「お前は神の子ならば、世界中の人々にそのことを証明して見せてみろ。神の子は神の言葉を信頼しているはずだ。それなら、聖書に書いてあることが本当かどうか神殿から飛び降りて証明しろ。」と言っているのです。「人々が見ている前で主イエスが神殿から飛び降りたときに、もし天使が大勢現れて主イエスの体を支えたとしたら、人々はびっくりしてイエスが神の子だと信じるだろう。」これが、このとき悪魔が言おうとしていることです。
このような劇的な出来事は人々に大きなインパクトを与えます。多くの人は「神を見せてくれたら信じてやる」というようなことを言います。人々はしるしを求めるのです。しかし、そのようなドラマチックなしるしは、本物の信仰を生み出すものではありません。主イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人の人々を満腹にしたとき、その出来事に人々はびっくりし、イエスの力のすごさを知りました。すると彼らは主イエスをむりやり自分たちの王にしようとしました。しかし、主イエスは、彼らから離れて一人で祈りのときを持たれたのです。しかし、あれほど主の奇跡に興奮していた人々も、主イエスの説教を聴いてイエスが自分たちが願っているような預言者ではないとわかると、たちまちイエスに敵対する側に回ったのです。ドラマチックなしるしを求めるのは信仰のしるしではなく不信仰のしるしです。
これに対して主イエスは「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」と答えられました。神を信じるクリスチャンにとって、神を試みることは神を疑うことであり、神を疑うことは、神を信頼していないことです。それは罪なのです。もし、イエスが、悪魔の言葉に誘われて神殿から飛び降りたらどうなるでしょうか。それは、神様に超自然的な働きをするように神様に指示を出していることと同じです。主イエスの行為は不必要なことであり、不必要な行いによって神に命令をしているのです。「天使を送って私の体を守ってください。」それは父なる神に助ける方法まで指示することになるのです。神の御心よりも自分の考え、自分の計画を大切に考え、それを第一にすることです。ところで、私たちは、そのような祈りを神にささげていないでしょうか。神様に祈るときに、すでに自分で答えを決めていないでしょうか。「わたしが願っているような方法で私の祈りに答えてください」と願っていないでしょうか。神の愛と力を信頼できないとき、私たちは自分の知恵と経験を頼りにします。そして、何かの問題にぶつかったときに、そこから抜け出す方法は自分の考えている方法でしか抜け出すことができないと思い込むのです。しかし、私たちの神様は私たちよりもはるかに力強く、はるかに豊かな方です。主が言われたように、私たちは、このすばらしい愛に満ちた、気前の良い神様を疑わずに、いつも信頼して歩みたいものです。
(3) 神だけを礼拝せよ。
2番目の誘惑にも失敗した悪魔は主イエスを高い山に連れて行き、この世界の繁栄を見せました。そして「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべて与えよう」と言ったのです。主イエスは天地を創られた主ですから、当然、世界の繁栄のすべては主イエスのものです。しかし、悪魔は、その点でイエスを誘惑しているのです。サタンが言おうとしていることは、「お前は王の王なんだろう!全世界を支配する権威を持っているんだろう?それなら、なぜ、そんな低い人間の姿を取って弱い者になったのだ?お前は今、全世界を支配する資格を持っているのだ。王であるお前がなぜ、人間に仕えているのだ。」全世界は悪魔のものではないのに、自分のものであるように偽って「俺を礼拝するならこれ全部をお前にあげよう」とささやきました。悪魔はつねに私たちの心にささやきます。「お前はほしいものを手に入れることができる。」「お前は自分の欲望を満たせばいいのだ。」「お前は自分の好きなように生きることができる。」悪魔は私たちにそれらを与えようとうその約束をするのです。エバを誘惑したときもそうでした。神様はエバにはエデンの園の中央にある木の実を食べれば必ず死ぬと警告していましたが、悪魔はエバに「神はうそつきだ。その実を食べると神のようになれる」と言いました。エバが実際にそれを食べたとき、エバは神のようになったのではなく、罪の恐ろしさと罪の力を知り、罪に縛られて生きる者となってしまいました。エバは初めて恥を知りました。それで恥を隠そうとしたのです。悪魔は私たちに良い物を与えると約束しながら、実は、私たちの心を欲望で縛るのです。
このような誘惑に対して、主イエスは非常に厳しい口調で答えられました。「引き下がれ、サタンよ。あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」悪魔の偽りを激しく責めることによって、主イエスは悪魔に対する絶対的な権威を示されました。本当の支配者、本当に礼拝するべきお方は神であることをはっきりと宣言されました。主は、天の御国を受け継ぐ方です。この世の終わりには神が完全にこの世界を支配するときが来ると聖書は預言しています。そして、悪魔が完全に滅ぼされる時も来るのです。主イエスを信じる者は、たとえ天地が滅んでも、主イエスとともに天の御国を受け継ぐ者となるのです。
(結論)
主イエスが「引き下がれ、サタン」と命令したとき、主イエスは悪魔の誘惑に勝利を宣言されました。11節にあるように悪魔は主イエスから離れて行きました。悪魔はイエスに何もすることができませんでした。悪魔は、荒野で主イエスを試みたのと同じように、私たちを誘惑します。私たちはどのようにして、その誘惑に打ち勝つことができるでしょうか。私たちには主イエスの模範があります。主イエスは悪魔の誘惑を受けたときに、その誘惑に耳を貸さずに、聖書の言葉を語られました。私たちも、誘惑を受けるときに、主イエスを見なければなりません。主イエスが行われたように行わなければなりません。しかも、主は、わたしたちのためにこの誘惑を受けてくださったのです。ヘブル人への手紙2章18節には次のような言葉があります。「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」主イエスはいつも私たちとともにいて、私たちが試みられているときに助けてくださいます。そして、脱出の道も開いてくださるのです。主イエスとともに悪魔の誘惑にしっかりと立ち向かっていきましょう。主が勝利の力を与えてくださいます。
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