2005礼拝めっせーじ

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メッセージ2005


礼拝説教 2005-02-06『神の子の宣教の始まり』(マタイ4章12-17節)
(1)イントロ
 先週は主イエスが悪魔の試みに完全な勝利を宣言されたことを学びました。それから間もなくしてバプテスマのヨハネに悲劇が起こりました。当時ガリラヤ地方の支配者であったヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の息子)が、自分の母違いの弟ヘロデ・ピリポの妻と不倫の仲になり、自分の妻と離婚して、弟の妻と強引に結婚していました。バプテスマのヨハネは公の場でヘロデ・アンティパスを非難したことによって、王に捕らえられ死海のほとりにあった牢獄に入れられました。その後、バプテスマのヨハネは殺されてしまいます。救い主がこの世に来られることをイスラエルの民に知らせるという使命を受けた預言者、バプテスマのヨハネがこの世から姿を消すと同時に、いよいよ神の御子キリストの公の働きが始まるときが来ました。ヘロデ・アンティパスと新しい妻ヘロデヤは、この世の支配者として権力を自分勝手に用いて自分たちがこの世界を自由に支配できると考えていました。しかし、人間がどのように身勝手な行動を取ったとしても、神様の計画をとどめることはできません。むしろ、彼らの行動が神様の計画を進めることになったと言うことができるでしょう。神様の働きをとどめることは誰にもできないのです。
(2) 救い主が働きを始められた場所
 ルカの福音書4章16節を見ると「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。」と書かれています。主はユダヤ地方を離れて自分が育った郷里のナザレに行かれました。そして安息日になると会堂に入って旧約聖書の言葉を読み説教を語られました。ナザレの人々は、初めのうちは、主イエスの教に驚いていましたが、主が彼らの霊の目が開かれていないことを語ると、彼らは激しく怒り、ついには崖から主を突き落とそうとするほどでした。主イエスは故郷のナザレの人々に拒絶されたため、ナザレを離れ、ガリラヤ湖のほとりにあるカペナウムという町へ行かれました。
マタイは、この出来事を預言者イザヤの預言の成就だとみなしました。それでマタイはイザヤ書の9章1節の言葉を引用しています。4節の言葉がその引用です。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。」ガリラヤ地方はエルサレムから80キロ北にあるガリラヤ湖を中心にした緑豊かな地域です。しかしこの地域はたびたび外国の侵入を受けました。紀元前8世紀にはアッシリアによって完全に占領され、住民の多くがアッシリアに捕虜として連れて行かれ、そこへ多くのアッシリア人が移り住んだのです。そのためガリラヤに住む多くの人には外国人の血が混じっていました。そういうわけで、この地域は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。ですからエルサレムに住む人々はガリラヤの人々を低く見ていました。エルサレムのユダヤ人が、イエスこそ旧約聖書が預言している救い主キリストだということを聞いたときに「まさかキリストはガリラヤからはでないだろう」と話しています。しかし、主イエスが神の子として福音を最初に語った人々は、エルサレムに住む人々ではなく、ガリラヤの人々でした。イザヤ書の9章2節には次のように書かれています。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」この「死の陰の地に住んでいた者たち」という部分は厳密に言うと「死の陰の地に座っていた者たち」と訳すべきです。ガリラヤには神を知らない人がたくさん住んでいました。そのような彼らを預言者イザヤは「やみの中を歩んでいた民、死の陰に座り込んでいる人々」と呼んだのです。もちろんこの預言は第一に当時ガリラヤ地方に住んでいた人々のことを指しています。彼らは神を信じることなく神のことについても自分自身のことについても無知でした。そのために死の陰に座り込んでいるのです。「座り込む」というのは、自分が置かれている生活・状況に仕方がないとあきらめている姿を現しています。何かに向かって立ち上がろうとしない無気力な姿を現しています。ですから、これは、たんにガリラヤに住む人だけでなく、私たちを含めて、この世のすべての人を指しているのです。ニュースによると、昨日も神奈川と伊豆2件の集団自殺がありました。愛知では男が初対面の赤ちゃんを包丁で刺し殺しました。今の日本は当時のガリラヤと何も違っていません。私たちは、神の目から見ると、罪の性質を持っているために闇の中を歩くように行くべき方向が分からずに歩いています。そのために神様から与えられたいのちをおろそかにしてしまうのです。しかし、そのような人々に神様のメッセージが届けられたのです。そのような人々のところへ主イエスは近づいてくださいました。福音の光が最初にガリラヤに住んでいた人々に照らされたことは、福音がユダヤ人だけではなく、全世界のすべての人々に向かって語られたものであることが分かります。主イエスは、闇の中を歩んでいる人、死の影の地に座っている人々のところへ、救いのメッセージを持って、愛の心を持って近づいてこられました。主イエスは、苦しんでいる人々、悲しんでいる人々、悩んでいる人々を見つけ出して新しい人生へと導いてくださるお方です。主イエスが神の子としての働きを始めた場所がガリラヤであったことは、ふさわしいことだったのです。
(3) 主イエスが宣言された福音
 主は神の子としての働きを始められましたが、そのことが17節には次のように書かれています。「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」主の第一の働きは宣教でした。17節で「宣教」と訳されている言葉は「宣言する」「公にする」という意味を持つ言葉です。昔、王様が出した命令を人々のところへ言って大きな声で伝える働きをする人々がいました。英語では「ヘラルド」と言います。ヘラルドが語る王様の命令にはだれも反対することはできません。反論することもできません。みな、従わなければならないのですが、ここの「宣教」とはヘラルドが宣言するのと同じ意味です。ですから、宣教するとは、話を聞いている人々と議論することではありません。いろいろな証拠を用いて論理的に証明することでもありません。イエスは、自分のメッセージについて、いろいろな証拠を述べて説明することはしていません。主は権威をもって宣言されたのです。主イエスが、暗闇の世界に光を投げかけるために宣言されたメッセージは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というものでした。
 人々がやみの中を歩いていたのは、罪と悪という闇の中を歩いていたからです主イエスが言われましたのは、「あなたの心の中にある罪のゆえにあなたは闇の中を歩いているのだ。その闇の中に座っていないで、立ち上がって光の方に歩き出しなさい。」という意味です。悔い改めとは、もともとは「方向を変える」「Uターンする」という意味を持っている言葉です。自分の人生の方向を変えて、今の向きを変えて新しい生き方を求めることが、悔い改めの意味です。主イエスがたとえ話で話された「放蕩息子」の場合も、惨めな状況に陥ったときに、その放蕩息子はようやく自分が本当にいるべき場所が分かりました。そのときに、彼は立ち上がって自分の家に帰ったと主は言われました。彼は罪の生活にどっぷりとつかり、座り込んでいました。ですから、彼がまずするべきことは、その生活から立ち上がることでした。そして、自分の家に向かって歩き出すことでした。主イエスは、自己中心の罪という暗闇の中を歩んでいる人々に、本当の自由と本当の平安に満ちた新しい生活に導こうとしておられるのですが、そのためには、私たちはまず悔い改め、生活の向きを変えなければなりません。
 なぜ、悔い改めが必要なのかというと、神の御国が近づいたからだと主は言われます。光は闇の中から現れるのではありません。光に満ちたところから来られた主イエスが、この闇の世界に光を与えてくださるのです。私たちに光を与え、私たちが生きていることの意味を教え、また、私たちの罪の心を新しく作り変えてくださる王なる方が私たちの近くに来られたのです。時が満ちて、神様の計画が新しい段階に入りました。神様と私たちが新しい関係を結ぶことのできる時代がやって来たのです。「天の御国」と訳されていますが、厳密には「天の王国」です。聖書で「天の王国」「神の王国」という言葉は地理的な場所や特定の国を意味するのではなく、神様の支配、神様の権威を表します。ですから、天の御国が近づいたという言葉の意味は、神様がこの世界を支配するときが近づいたということです。ユダヤの人々は自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれる政治的な王様を求めましたが、主イエスは、私たちの心を霊的に支配するお方としてこられました。それは、政治的自由が人間の本当の自由をもたらすものではないからです。
 私たちは、自分の好きなように生きることが幸せと考えることが多いですが、本当にそうでしょうか。放蕩息子は自分の好きなように生活をした結果本当に惨めな状態に陥ってしまいました。実際には、私たちは神様の御心に従って生きるときにこそ、本当の自由、本当の平安、まわりの状況に左右されない喜びを経験することができるのです。主イエスは、私たちをそのような生き方に招きいれるために神としての栄光や特権を全部捨てて私たちに近づいてくださったのです。
 私たちは礼拝の中で主の祈りをささげます。主の祈りの中に「御国が来ますように」という祈りがあります。私たちは何を祈り求めているのでしょうか。それは、第一に、私の意志が神様の意思に従いますようにという祈りです。第二に、それは神様に全面的に従うことができるようにという祈りです。主はある時言われました。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」天の御国は、主イエスに従っていくことを決心し、昔の生活に戻らないでまっすぐに前進しようと決意したひとのためにあります。「御国が来ますように」とは、言い換えると私の心が昔に戻らないようにという祈りだと言えるでしょう。第三に、「御国が来ますように」という祈りは100%神様に信頼する祈りです。自分の心を神様に支配してもらい、神様に導いてもらう時、私たちは何を飲もうか何を食べようかと心配することはなくなると主は言われました。神様は信頼する人は神様がどれだけ豊かな方であるかということを知っている人です。
 主イエスがこの世に来られたときに、天の御国は近づきました。しかしまだ完全にこの世を支配するときが来ていません。私たちが「御国が来ますように」と祈るとき、私たちは自分の心の中だけを求めるのではなく、世界中の人々の心が神様に支配されるようにと求めています。天の御国は近づきました。しかし、天の御国をこの地上で広めていく責任は神を知り、神の救いを信じたクリスチャンにあります。私たちが「神の御国が来ますように」という祈りを生活の中で実践するとき、この世に大きな影響を与えることになります。世界の歴史を見ても、天の御国を求めて祈った人々によって大きな影響を受けて来ました。イギリスに200年ほど前ウィルバーフォースという名前の国会議員がいました。その人はクリスチャンでした。彼が「御国が来ますように」という祈りを生活の中で実践しました。彼は当時問題となっていた奴隷解放のために尽くし、20年の戦いの後に、奴隷解放反対者たちに勝利することができました。病人に対する扱いは、ナイチンゲールの祈りを通して改善されました。イエス様がこの世に来られた時、神の国が近づきました。今、私たちが心から「御国が私の心に来ますように」と祈り続けるなら、そのような祈りをする人が増えるなら、この世界に神の支配が訪れ、今とはまったく違う世界になるでしょう。主は今日も私たちに向かって言われています。「悔い改めなさい。生活の方向を変えなさい。天の御国が近づいたからです。」


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