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礼拝説教 2005-02-13『わたしについて来なさい』(マタイ4章18-22節)
(イントロ)
(1)イエスはどこで彼らを召されたか
イエスは、ある時、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられました。ガリラヤ湖は気候が温暖で周囲の平野も緑が豊かで世界で最も美しい湖の一つに数えられています。3月には湖の近くの草原は菜の花のような黄色い花に覆われています。イエスの時代にはガリラヤ湖の湖岸に9つの町があったそうですが、今はテベリアというローマ皇帝の名前がつけられた町だけが残っています。また当時はガリラヤ湖での漁業がとても盛んだったそうです。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいた。」と神の子としてメッセージを語り始めましたが、同時に、弟子を選ぶことも始められました。主は自分の弟子を選ぶのにガリラヤ湖へ行かれたのです。主イエスがこの地上でご自分に最も近い存在として12人の弟子を選ばれました。後に、初代教会が誕生した後では、主イエスが直接選ばれた弟子たちは一般の信者たちからは特別な尊敬を受けることになります。主イエスに直接召された12人はキリスト教の世界においては特別な人々です。そのような人々を選ぶために主イエスが行かれた場所は、エルサレムではありませんでした。エルサレムに行けば、祭司たちがいます。律法学者たちがいます。能力もあり知識もあるエリートたちがたくさんいますが、主イエスは、そのようなエリートたちからは一人も弟子を選ばれませんでした。確かに人の見る目と神の見る目は違うのです。先週も言いましたように、ガリラヤは都エルサレムからは遠く離れいた田舎でした。そこに住む人々の多くは十分な教育を受けておらず、また、性格も荒っぽい人が多かったようです。また、ガリラヤの人々は方言で話していましたから、ペテロの場合のように、エルサレムの人がガリラヤ人の話を聞くと、すぐにガリラヤ出身であることはばれてしまいます。都会的な洗練された人はほとんど住んでいませんでした。しかし、主イエスは、そのような地域に行って、そこに住む人々を自分の弟子に選びました。主イエスは、ガリラヤに住むこの世において特権を持っていない、有利なものを何も持っていない人を主イエスは神の国の働き人に選ばれたのです。
(2)どのような人が弟子に選ばれたのか
今日読んだ箇所では、主イエスは4人の人を弟子になるように招いています。ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブ、と2組の兄弟が弟子に選ばれました。ところで主イエスが自分の弟子に選んだのはどのような人だったのでしょうか。彼らは皆、漁師でした。彼らは生活もそれほど裕福ではありませんでした。また、彼らは教育を受けておらず、知識も教養もない人でした。第一コリントの1章でパウロはクリスチャンがどのように神に選ばれたかということについて書いています(25~29節)。私たちは神によって選ばれたのですが、それは私たちが人間的に他の人よりも優れていたからではないのです。私たちがこの世に生まれたときどのような人間であっても、どのような性格であれ、能力がどのようなものであれ、生まれ育った環境がどのようなものであれ、神は信じる者に救いを得させる力を与えられました。神の力はどんな人間の知恵よりも優れているからです。主イエスの周りには、当時社会において除け者にされていた貧乏人、取税人、罪びとたちがいつも招かれていました。それは、どのような人間でも、神には、その人をまったく新しく作りかえる力があるからです。逆の言い方をすると、私たちが救われているのは私たちに何か資格があったからではありません。一方的な神様の愛と恵みによって与えられたのです。自分のうちに救われる資格があると考えるのは傲慢です。神の恵みを受け取ろうとしない高ぶった心で、あらゆる罪の根になるものです。主イエスは、この世的に見ると知識も能力も財産も乏しい人々を弟子に招かれました。それは、キリストの弟子として生きるのにもっとも重要なのはこの世の知識でも、この世の能力でも、この世の財産でもないからです。
ペテロとアンデレは網を湖に投げて漁をしていました。一方ヨハネとヤコブは父親と一緒に網を繕っていました。二人は父親の仕事を手伝っていまいた。彼らは、皆、漁師として勤勉に働いていました。神様が主イエスの弟子となる者に求めておられるのは勤勉で忠実に働く姿勢です。モーセやダビデがイスラエルの民のリーダーに選ばれたとき、二人とも、羊飼いとして勤勉に働いていました。また、彼らは忍耐強い人々でした。漁師としてはたらくには忍耐が必要です。一晩中網を下ろしていても魚が一匹も釣れないときもあります。魚が網にかかる時をじっと待たなければなりません。同時に漁師たちは、魚がいそうな場所をすばやく見つけなければなりません。いつ、どのあたりに網を下ろせば魚がかかるかということを経験から、また直感から見つけ出さないと魚は獲れないのです。また、漁をするにはいつも危険が伴いました。ガリラヤ湖の天気は変わりやすく、しばしば嵐を経験していました。彼らは、漁師として働くのに必要な才能や資質を持っていましたが、主イエスはそれらを見抜いて、彼らを人々の魂を捕らえる主の弟子になるために、彼らの才能・資質を用いられたのです。
(3)人間をとる漁師にしよう
主イエスがペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブを選ばれたのは、彼らを人間を取る漁師にするためでした。「人間を取る漁師」とは面白い表現です。しかし、主はなぜ、「自分の弟子にしよう」と言わないで「人間を取る漁師にしよう」といわれたのでしょうか。一つには、彼らが傲慢にならないためではなかったでしょうか。主は彼らに特別な地位を与えたのではありません。彼らにするべき働きを与えたのです。人はすぐに自分のことを誇ろうとします。漁師は当時の社会では貧しい人々でしたから、漁師という地位を自慢する人は少なかったでしょう。そういうわけで、主イエスは、彼らを誇らせないために、漁師という言葉を用いられたのだと思います。もう一つは、彼らに恐れを抱かせないためです。彼らはもともと漁師ですから、魚を取るという仕事にはなれていました。取るものが魚から人間の魂に変わったと考えれば、彼らも主イエスの弟子としてどのように働けよいかが分かりやすかったと思います。実は、漁師の仕事と主の弟子の働きには共通点が多いのです。魚を取るためにはさかなのことをよく知らなければなりません。どの時間にどの場所に行けば魚がいるかということを知っていないと、いくら網を投げても魚はかかりません。人の魂を主イエスに導くためにも、相手の人のことをよく知ることが大切です。また、魚を取るためには時間をかける必要があります。なかなか魚が網にかからないことがありますが、漁師たちは忍耐強く時間をかけて漁をします。人を導くためにも時間が必要です。忍耐をもって人を導くことが大切です。主イエスは、彼らが漁師として鍛えていた忍耐や勇気や判断力を、他の人々の魂を主に導くという最も大切な働きのために用いられるのです。
(4)私について来なさい
主イエスが彼らに命令されたことは「私について来なさい」というものでした。これは「私の後ろにいつもいなさい」という意味の言葉です。彼らは、イエスの近くにいつもいるようにという命令を受けました。彼らはまず主の教えを聞き、主の愛の働きや奇跡の技を自分の目で見ることが必要でした。彼らは主イエスの証人となるからです。主イエスの弟子となるためにはすべての点で主と生活をともにしなければならないからです。主イエスは、復活の後この地上を去る時に語られた地上での最後の言葉の中で次のように言われました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」ですから、すべてのクリスチャンは主イエスの弟子であるはずです。主イエスは私たちに向かっても「私について来なさい」と言っておられるのです。ペテロとアンデレは網を置いて、仕事をやめて主イエスについて行きました。ヨハネとヤコブは仕事をやめ父のもとを離れて主イエスについて行きました。彼らは、主イエスの弟子として生きることの意味をすべて理解していたわけではありません。しかし、彼らは主イエスと出会って、主イエスがどういう方であるかを知った時に、主イエスに信頼して生きれば何も心配することはないと確信したのでした。私たちの信仰も、主イエスに信頼して生きることなのです。私を愛しておられる主が私たちを見捨てることはありません。私たちを招いてくださった方は最後まで責任を持って私たちを守り導いてくださる方です。そのことを確信していた彼らは、主イエスとともに主イエスのために働くために自分の仕事、自分の家を離れて主イエスの招きの言葉に従ったのです。主が求めておられるのは主に喜んで従う人々です。喜んで従う心です。主の言葉には力があります。主が私たちを招くときは、主が将来のこともすべて知っておられるのです。主が墓場に入れられていたラザロに向かって「ラザロよ、出てきなさい」と命じられると、ラザロには死からよみがえり墓場から出てくる力が与えられました。同じように、主が私たちに「したがってきなさい」と命じられるときに、私たちに主に従う力を与えてくださいます。弟子たちは、すべてを主の命令をすべて理解したわけではありませんでしたが、主についていきましした。彼らの従順な心に主は新しい力を与えてくださるのです。ヨハネとヤコブはもともと非常に気性が激しい人間でした。ある時、二人はサマリヤ人が主の言葉を受け入れようとしないのを見ると、神が彼らを滅ぼすことを願ったほどです。しかし、彼らは主イエスとともに生活をするうちに主の愛を吸収し、人々の救いを心から願う弟子へと変えられました。キリストの弟子として生きるときに最も大切なのは、主イエスを信頼し主に喜んで従おうとする心です。主が彼らを弟子になるように召された時、主は彼らの人間的な能力や資質以上に、彼らの中に主に喜んで従う心を見たのでした。
私たちは、皆、キリストの弟子になるように招かれた者です。私たちは自分たちの幸福だけのためにクリスチャンに導かれたのではありません。私たちは主の命令に従い主に仕えるため、そして主の願いであるほかの人々が救いに導かれるためにクリスチャンになったのです。そのことを忘れないで、地上に神の国が広がるために私たちは自分が置かれている場所で主の弟子として主に従って歩まなければならないのです。
英語の讃美歌で「下の光を輝かせよ」という歌があるそうです。これはある出来事から作られた唄です。アメリカのクリーブランドの港には船を誘導するための二つの灯台がありました。一つは高台に作られた灯台で遠くにいる船にも見える光でした。もう一つは港に作られた灯台で、港に近づいてきた船を導くためのものでした。ある嵐の夜、船が港に近づいて来ましたが、低い灯台が故障して光が消えていました。船長は最初、沖で停泊して一夜過ごそうと思っていましたが、嵐が強くなったので、危険を冒して港に入りました。すると、船は港の近くで座礁して船員の多くがおぼれたそうです。ムーディーという伝道者が、この出来事をクリスチャンの証と結び合わせて次のように言ったのです。天からの光は昔も今も輝き続けている。しかし、この地上の光はどうだろうか。主イエスは私たちにも「私について来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう。」と声をかけておられます。
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