2005礼拝めっせーじ

礼拝説教02/20|メッセージ2003メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000メッセージ2004

メッセージ2005


礼拝説教 2005-02-20『本当の幸福とは』(マタイ福音書5章1-12)
(イントロ)
  マタイの福音書は4章まで、主イエス自身の言葉はあまり多く記録していません。英語の聖書では主イエスご自身の言葉が赤い字で印刷されている聖書がありますが、4章までは赤い部分はほんの少しです。しかし、5章に入ると一転してヘページ全体が真っ赤になっています。特に5章から7章にかけては「山上の説教」とか「山上の垂訓」と呼ばれる有名な箇所ですが、ここでは、主イエスが神の国についての教えの基礎となる教えについて詳しく述べておられます。5章の1節には「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。」と書かれています。主イエスが山上の説教を語り始められたきっかけは、主イエスが「群衆を見られた」からです。主イエスはいつも群衆、イスラエルの人々のことを心に留めておられました。そして、群衆に対して深い愛を持っておられました。ある時は、イエス様は、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われました。また、ガリラヤ湖で舟から岸辺におりると大勢の群衆が集まっていたのですが、その中には病人が大勢いました。するとイエス様は「彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。」と福音書には記されています。また、ある時は群衆がイエス様に癒してもらうために大勢の病人を連れてきていました。彼らを一人一人癒された後、主は群衆を見て弟子たちにこう言われました。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」(15章32節)主は群衆を愛しておられました。主が愛しておられなかった人は一人もいません。もちろん、主はパリサイ人や偽善者には厳しい言葉を言われましたが、それは彼らを憎んでいたからではなく、彼らが自分の本当の状態を気付くように言われた言葉なのです。群衆の中には健康な人、病気の人、貧しい人、豊かな人、高い地位の人、無名の人、教育を受けた人、受けなかった人、本当にいろいろな人がいました。その一人一人に向かって主イエスはメッセージを語られたのです。ですから、聖書に記されている主イエスの言葉は、私のために語られた言葉、私を愛し、また私を哀れんで、私のために主が語られた言葉として受け取るべきことばなのです。
(1)幸いという言葉について
 主イエスが、群衆に向かって神の国の教えを語られた時に、最初に人間の本当の幸福について語られたのは、主イエスの私たちに対する願いが込められているからだと思います。主が心から願っておられることは、私たちが本当に幸いな人生を生きることなのです。そして、幸いに生きる道があることを人々に示されました。日本語で「幸いです」と訳されている言葉はギリシャ語の「マカリオス」という言葉です。これは「幸せ」「恵まれている」という意味の言葉ですが、ホメロスなどギリシャの詩人はギリシャの神々を「マカリオス」だと述べたそうですが、それはギリシャの神々が人間の世界の状況には一切影響を受けない姿を意味するそうです。人間は、貧しさ、病気、不幸な出来事、死、などいろいろなものに影響を受けます。しかし、ギリシャの詩人はギリシャの神々は人間世界のこと、外側の出来事に一切の影響を受けることなく、それぞれが満たされた心を持っていることを描きました。英語のハッピーと言う言葉の語幹は「ハップ」で、これは偶然を意味する言葉です。ハプニングという言葉と同じ言葉から来ているのです。人間の幸福は人生の偶然によって影響されるものです。
中国の故事に「人生万事塞翁が馬」という話があります。昔、中国北方の国境地帯の城塞の近くに占いの上手な老人がいました。ある日、老人が飼っていた馬が胡という北の国に逃げてしまいました。近所の人々が気の毒に思い、慰めに来ましたが、その老人は悲しむどころか、「これがどうして幸福に転じないことがありましょうか。」と言いました。すると数ヶ月後、逃げた老人の馬が、胡の国の良馬を連れて帰ってきました。人々は、お祝いの言葉を言いに来ましたが、老人は、「これがどうして禍に転じないと言えますか。」と少しも喜びませんでした。 老人の家は、良馬に恵まれましたが、ある日、乗馬好きの息子が落馬して ももの骨を折ってしまいました。可哀想に思った人々がまた、慰めに来ましたが、老人は、「いや、なんでこれが幸福に転じないことがありましょうか。」と平然としていました。 その後、胡の国が城塞に攻め込んで来ることがあり、村の若者は皆、戦いに出て、10人中9人までが戦死してしまいました。しかし、老人の息子は、足が不自由であったために、戦に出ることがなく、親子ともに無事だったということです。このように私たちの幸福は人生の出来事、変化に左右されてしまいます。しかし、主イエスが私たちに与えようとしておられる幸いな人生は、この世の影響を受けないものです。苦しみや悲しみや痛みの中にあっても、なお心の中からあふれ出る喜びです。イエス様は、十字架にかかる前に弟子たちに言われました。「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(16章22節)
この「マカリオス」という言葉は「祝福に満ちた」という意味を持っていますが、この祝福に満ちた」という言葉は神様のご性質について旧約聖書でも新約聖書繰り返して用いられています。ですから、「幸い」あるいは「祝福に満ちた」という状態は神ご自身の性質を表すものであり、人間にとっては、神様とともに生きるときに初めてそれを受け取ることができるものです。私たちが、この「幸い」な人生を生きるためには、幸いな性質を持っておられる神様と個人的な関係を持って生きなければなりません。この世の幸せは訪れたと思うとまたすぐに消え去ってしまうものです。はかないものです。しかし、祝福に満ちた方である神様と個人的な関係を持って生きるとき、決して消えることのない幸いを持つことが主イエスご自身によって約束されています。この8つの幸いの教えは、主イエスの願いではなく、イエスの神としての宣言です。神の性質に預かろうとする人々への神の約束を宣言する言葉です。
(2)心の貧しい者は幸いです。
 主イエスは、山上の説教の冒頭で、8つの幸いについて語っておられますが、その第一に言われたことは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」という言葉でした。その教えは当時も今も、この世の人々にとっては驚くべき教えです。人はいつもこの世の生活、この世の持ち物、この世の名声から幸せが来ると考えるからです。しかし、そのようなものははかなく消え去って行くものです。今から3000年前のイスラエル王ソロモンは財産も知恵も家柄も当時世界最高のものを持っていました。彼が住んでいたエルサレムでは「ソロモン王は銀を石のように用いた」と書かれているほどです。しかし、そんなソロモンが自分の生活を語る時に「空の空。すべては空。」と述べたのです。
それに対して主イエスは本当の幸い、状況に左右されない幸いは私たちの外側から来るのではなく、私たちの心から来ることを教えられました。そしてそのような8つの幸いの最初に主イエスは「心の貧しい人」ということを言われました。それは、8つの幸いにあげられている生き方は、一つ一つ繋がっているからです。一つの生き方が次の生き方を導くのです。ですから、神の性質を受けて本当の幸いな人生を生きる第一歩が「心の貧しい」生き方なのです。その姿勢を持つ人は、悲しむ人となり、柔和な人となり、義に餓え渇く人となり、憐れみ深い人となり、心のきよい人となり、平和を作る人となるからです。このような生き方をする人はこの世から迫害を受けるでしょう。しかし、どんな時も、そのような人は世の光として輝いて生きる者となるのです。
3節で「貧しい」と訳されている言葉はギリシャ語では「プトーコス」と言います。これはもともと「体を縮める」とか「体を丸める」という意味を持つ言葉です。古典ギリシャ語では、この言葉は町の隅で体をかがめて乞食をしているような全く無一文の人を表すときに使われている言葉です。街角で乞食が金をくれと一方の手を差し出し、もう一方の手は人に見られないように顔を隠している、そのような姿を現す言葉で、たんに貧しいという意味よりも強い言葉です。そして主イエスは「心の貧しい人」と言われました。日本語では「心の貧しい」となっていますが、ギリシャ語では「霊の貧しい人」と書かれています。ですから、主イエスがここで言われていることは、私たちの外側の行いのことではありません。霊的に渇いている人のように振る舞うことではなく、自分が霊的に本当に貧しい人間であることを認める謙遜な心を意味しています。「自分の霊的状態が完全にゼロの状態で、自分だけでは生きていけない。神に100%頼って生きなければ生きることができない」ということを知っている人を意味するのです。イザヤ書66章2節で神様は次のように言っておられます。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」
主イエスが「心の貧しい人」を幸いな生活の第一に言われたのは、クリスチャンになるのに最も必要なものが謙遜だからです。私たちが自分の本当の霊的貧しさ、罪深さを知って初めて私たちは主イエスが十字架で示された愛を実感することができるのです。心が貧しい時に人は初めて自分にはどうしても神様が必要だということを知るのです。そのような人々に主イエスは「天の御国はその人のものだからです。」と宣言されました。心の貧しい人々に神様は喜んで天の御国を与えてくださるのです。天の御国とは、全能者であり、豊かな富とすべての権威を持っておられる神様の支配が私たちの生活を完全に覆うということです。私たちがどんなに弱い者でも、私たちがどんなに貧しい者であっても、神様ご自身の力、神様ご自身の富が私たちを満たすという約束です。神様は、神様の前に自分を低くする者を高く引き上げてくださる方なのです。その時、まわりのどんなものを私たちが神様から受ける幸いをうばいさることはできないのです。
18世紀に現在のチェコでモラビア兄弟団という信仰者のグループが生まれました。彼らは信仰を生活の中で実践することを目指していたのですが、周囲から激しい迫害を受けていました。彼らは、祖国での迫害から逃れてドイツのツィンチェンドルフ伯爵のもとへ行きました。彼らは、伯爵から与えられた森を切り開いて自分たちの新しい家を建てて、そこを「主のテント」と呼びました。彼らは最初の建物の角石に詩篇84編3節の言葉を刻みました。「雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。」詩篇84篇は短い詩篇ですが、その中で繰り返して「なんと幸いなことでしょう。」という言葉が3回使われています。「なんと幸いなことでしょう。主の家に住む人は。」「なんと幸いなことでしょう。その力が主にある人は。」「なんと幸いなことでしょう。主に信頼する人は。」神様は、私たちにも、この幸いを与えると宣言しておられます。そのために必要なことは、まず、私たちが神様の前にへりくだって、自分の心の貧しさを認めることです。その時、この世界の創り主であり、この世界の本当の支配者である神様が、あなたの王様となってあなたを守り、あなたをやしなってくださいます。


ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。)