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礼拝説教 2005-03-13『律法と福音』(マタイ5章17-20節)
(イントロ)
主イエスは、山上の説教の中で、最初に、永遠に変わらない幸福とは何かということを教えられました。そして、その幸福な人生はどんな生き方になって現れるかということを「地の塩」「世の光」となって生きることだと教えられました。そして、17節から20節のところで、主イエスは旧約聖書の律法とご自分の働きについて語られました。
(1) 律法とは何か
主は、幸福の教えと「地の塩」「世の光」について教えられた後、群衆たちの中に、イエスは旧約聖書の教えを捨てて新しい教えを教えていると考えている人々がいることを知って、自分が旧約聖書の律法を破棄するためではなく、むしろ成就するために来たと教えられました。主イエスは、当時のユダヤ人が考えていた律法を破ることがよくありました。イエスは、律法を破る者として罪に定められて十字架につけられたと言ってもよいでしょう。主イエスが、働いてはならない安息日に病人を何度も癒されました。それを見た律法学者やパリサイ人たちは非常に怒りました。では、なぜ、主イエスは、ここで、「わたしは、律法を廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われたのでしょうか。また、なぜ、ユダヤ人たちはイエスが律法を破る者だと考えたのでしょうか。
それには、まず「律法」という言葉が何を意味するかということをかんがえなければなりません。ユダヤ人が律法という時には、いくつか違った意味がありました。まず、モーセの十戒を律法と呼んでいました。また、モーセが書いたと言われる旧約聖書の最初の5つの本も律法と呼ばれていました。さらに旧約聖書全体を律法という言葉で表す時もありました。しかし、主イエスの時代にユダヤ人が一般に律法と呼んでいたのは、旧約聖書の原則的な律法を毎日の生活で実践するための細かい規定でした。律法学者と呼ばれた人々はユダヤ教の働きをしていた祭司やレビ人たちが中心でした。彼らは旧約聖書の律法を学び、解釈をし、人々に教えていました。彼らは、毎日、旧約聖書の律法を生活で実践するための細かい規定について論じあっていました。たとえば、モーセの十戒の中には「安息日には働いてはならない」という教えがありますが、彼らは、その教えを守るために、まず、何が仕事で何が仕事でないかということを決めるために、長々と議論していたのです。これらは律法学者の律法とも呼ばれました。彼らは細かい規定を作ることに熱心になるあまり、もともと神様が人々に求めていたことは忘れられて、表面的な細かなことばかり考えるようになっていました。そのために、主イエスが安息日に病人を癒された時に、律法学者やパリサイ人たちは、非常に怒って、どのようにしてイエスを殺そうかと相談する始末でした。イエスの時代に、正統派のユダヤ教徒が、神の教えに従おうとすると、何千という数の規定を守らなければなりませんでした。
それでは、主イエスが成就するためにこの世に来られた律法とは何を意味したのでしょうか。イエスは律法を破棄するためではなく、律法の本当の意味を教え、それを実践するためにこの世に来られたのです。十戒に代表されるように、律法は人間を生かすものであり、大切なのはその精神です。安息日についても、神様が人間に休息が必要なことを知っておられて、人間のために制定されたものでした。神に造られた人間が神とともに安息を得ることが安息日の律法が造られた精神だったのですが、律法学者やパリサイ人たちは、それをすっかり忘れて安息日の細かい規定を守ることしか考えていませんでした。主イエスは、「もっとも大切な戒めは何か」と尋ねられて「全力を尽くして神を愛することと、自分と同じように自分の周りの人々を愛することだ」と答えられました。ある安息日に、パリサイ人たちが片手が不自由な人をイエスのもとに連れて来ました。わざわざ安息日に彼らがその人を連れて来たのは、イエスが安息日にその人を癒すのを見てイエスを訴えるためでした。その動機を見ても、彼らが律法を理解していなかったことは明らかです。イエスは、彼らの動機を全部知っておられましたが、その人を癒してあげました。主イエスにとって律法に対する姿勢ははっきりしていました。安息日であろうとふつうの日であろうと、善を行うことは良いことであり、悪を行うことは悪いことです。主は片手が不自由な人を哀れみ、癒しを通して彼に対する愛を実践されたのです。しかし、それを見たパリサイ派の人々は怒って、イエスを殺す相談をしています。安息日に病人を癒すことを罪だと見なした彼らは、殺人を計画しても罪悪感を感じていないのです。
(2)律法学者とパリサイ人の義
律法学者やパリサイ人たちは、自分がこのような規定を守って生きているので自分は神の目に正しい人間だと思いこんでいました。彼らは人々に向かって自分たちの正しさを示し、自分たちを見習って生きるように教えていました。しかし、それは本当の義ではありませんでした。
第一に、彼らの義は表面的なものでした。彼らは、律法が書かれている言葉にこだわっていました。そして、律法の精神というものは完全に忘れられて、ただ、言葉に表されている規定を守ることに一生懸命でした。ですから、彼らにとっては、行いが大切なのであって、どのような動機で行動するのか、人々にはどのような態度を取るべきかというようなことはほとんど気にしていませんでした。どんなに人を憎んでも、殺しさえしなければ自分は律法を守っている、自分は正しい人間だと考えていました。だから、主イエスは、彼らに向かって、「あなたがたは、杯や皿の外側はきれいにするが、内側は罪で満ちている」と言われました。また、彼らの義は不完全なものでした。主イエスはマタイ23章23節で彼らを厳しく批判しています。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。」彼らは、律法には書かれていないのに、自分たちの庭に生えている植物や種の十分の一を神に捧げることに一生懸命で、それを誇りにしていましたが、彼らは、ほかの人に哀れみや誠実な行動をすることを全く無視していました。結局、彼らにとって、義の生活をするとは、自己中心的な自己満足的な生活でした。自分が律法を守っている姿を人々に見せて、それを誇りとし、神様に栄光を表すのではなく、自分のプライドを満足させていただけでした。自分のことしか考えていませんから、他のひとに対する愛や誠実など、彼らにはまったく関心がなかったのです。
(2) 神が求める義、神が与える義、
イエスは19節で「あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」と言われました。このイエスの言葉は当時のユダヤ人にとっては驚きの言葉でした。律法学者もパリサイ人も神の律法を守るのに一生懸命であることを誰もが知っていたからです。彼らは律法をよく学んで、そこには248の命令と365の禁止命令があることを知っており、それらのすべてを守ろうとしていたのです。彼らの義にまさる生き方をしないと天国に入れないとすれば、入れる人は一人もいないと誰もが思ったのです。しかし、律法学者の義もパリサイ人の義も表面的で不完全なものでした。神様が求めているのは、真実の義、心の義、人間の力を遙かに超える義なのです。人は表面しか見ませんし、見えませんが、神様は心を見る方だからです。
しかし、神様は完全な義を求めるだけではありません。私たちにその義を与えてくださる方なのです。パウロはガラテヤ人への手紙の2章16節で次のように述べています。「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」神様は私たちが完全な義の生活ができなくても、わたしたちを義と認めてくださるのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰を持つことによって与えられるものです。私たちが神の前に自分の罪を認めて救い主イエスを信じるならば、主イエスが私たちの知恵となり、私たちの義となってくださるのです。神様は私たちの罪を全部見られるのですが、そのときに、神様は私たちのうちにキリストの完全な義を見てくださるのです。私たちが、自分の方法で、自分の力で神のもとへ行こうとしても決して、神のところまで届きません。
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