2005礼拝めっせーじ

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メッセージ2005


礼拝説教 2005-03-20『神の栄光を捨てた主』(ピリピ2章5-11節)
(イントロ)
 今日はしゅろの日曜日です。主イエスが十字架にかかられる直前の日曜日に、エルサレムの城壁の門を通って町中に入られた日です。主がエルサレムに入られる時、大勢の群衆が「ダビデの子、ホサナ、バンザイ!」と叫んで熱狂的に主を迎えました。しかし、それから5日後の金曜日には、群衆が「イエスを十字架につけろ」と叫んでいました。人間の心がこのように変わりやすいことを主イエスもご存じでした。主イエスが十字架につけられて苦しんでおられたとき、十字架の近くにいた人々の中には、死刑を執行するローマの兵士たち、主イエスを十字架につけるように要求したユダヤ教の指導者たち、そして、大勢の一般市民がいました。彼らは皆、苦しむイエスの前で、イエスをあざけって言いました。「こいつは、他人は救ったが自分は救えない。悔しかったら十字架から降りて自分を救って見ろ!」このような人々の中にはイエスの奇跡によってパンと魚を食べた人もいたことでしょう。主イエスの説教を聞いたり、主の奇跡の業を見たりした人もいたことでしょう。それにも関わらず人々は主イエスをあざけっているのです。しかし、この情景は単に2000年前のイエスを憎んでいた特別な人だけによるものではありません。私たちも、同じような罪深さを持っているのです。彼らとどこも違ったところはありません。私たちも、自分の都合によって、すぐに態度を変えてしまう罪人です。罪の性質の根本的な態度は自己中心です。自分のことを他の人よりも大切に考える生き方です。すべての人が根本的に自己中心なために、人間の社会は暮らしにくい世界なのです。確かに社会が悪いし、他の人も悪いのですが、実は、自分自身もその一員であることは間違いありません。主イエスの十字架の苦しみは、私たち罪人のこのような強い反抗を堪え忍んで、私たちの罪を許し、私たちに罪から許され永遠に生きる希望を与えるためでした。エデンの園から追放された私たちがもう一度神様とともに生きることができるようにするための主イエスの愛の行為なのです。私たちはキリストの愛を受けた者としてどのように生きて行けばよいのでしょうか。その問題に対する基本的な答えをパウロはピリピ人への手紙2章5節に記しています。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」これは古い訳では「キリストの心を自分の心としなさい。」となっていました。今日読んだピリピ2章のこの箇所ほどキリストの心をはっきりと表している箇所は他にはないと言われます。クリスチャンはキリストの心を自分の心として生きなさいと命じられていますが、キリストの地上の生涯にはっきりと表されたキリストの心がどんな心だったのか共に学びたいと思います。
(1) 仕える者となる
 6−7節に「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」と書かれています。主イエスは、神ご自身ですから、永遠の昔から存在し、私たちが住む世界は御子イエスによって、御子のために造られたものであると聖書は証言しています。6節に神の姿と書かれていますが、神は霊ですから、私たち人間のような形や外見があるわけではありません。しかし、私たちが霊的な存在で肉眼では見ることのできない神を理解するためには、どうしても自分が知っている世界のものと比べなければなりません。「神の目」とか「神の手」という表現が聖書の中で用いられていますが、これは神様が人間のような姿をしているという意味ではありません。むしろ、聖書は、私たちが神を理解しやすいように、人間の理解できる表現を用いているのです。ここで言われていることは、主イエスは神そのものであるということです。主イエスは、神ですから、ご自身の他に頼るべきものは何一つありません。キリストは天においても地においてもいっさいの権威が与えられていて、何一つ不自由なく存在できるお方です。しかし、そのようなお方が「神のあり方を捨てることができないとは考えない」のです。これは少し回りくどい言い方ですが、主イエスは、自分が神であるという立場を、しっかり握りしめて絶対手放すことができないこととは考えなかったという意味です。私たち人間は、一度、特権を手に入れると絶対に手放そうとはしません。それは、人は誰でも自分のこと、自分の利益しか考えないからです。中国では、公務員の間で汚職・腐敗がひどく、先日も、かなり高い地位にいる人が、何億円にもなるほどの賄賂を受け取り続けていたために死刑を宣告された記事が出ていました。このように、罪を持っている人間は、自分の権利・特権を握りしめます。しかし、あらゆる特権、権利、栄光を持っておられて御子イエス・キリストは、それらのものを全部捨てて、わざわざ私たちと同じ姿を取って、この世に来られたのです。それは、キリストの第一の心は、自分のために生きることではなく、他の人のために生きることだったからです。キリストは他の人に仕える者の姿を取られました。「神の御姿」も「仕える者の姿」も同じ言葉です。外見がそのように見えたのではなく、キリストは神そのものであるのに、僕そのものになられたのです。そのことをもっともはっきりと示されたのが最後の晩餐の時でした。食事の部屋が準備されていたのですが、その部屋は人から借りた部屋だったので召使いがいませんでした。普通、人が外から部屋に入って食事をするときには、足を洗いましたが、それは召使いの仕事でした。ところがそのときは召使いがいなかったので、自分たちの足を洗ってくれる人がいませんでした。誰かが申し出て足を洗えば、皆、気持ちよく食事ができたのですが、弟子たちの中には自分から召使いの仕事をしようと申し出る者はいませんでした。主イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、主は弟子たちに対するご自分の愛を残るところなく示されました。主は、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、手ぬぐいで、ふき始められた。そして、誰も他の人のために足を洗おうとしなかった弟子たちに向かって、「師である私が、弟子のために働いたのだから、あなたたちも私がしたように行いなさい。」と命令されました。私たちがクリスチャンと呼ばれるのにふさわしい生き方をするには、キリストを見習わなければなりませんが、まず、私たちは他の人に喜んで仕える者でなければならないのです。
(2) 自分を低くする
 仕える者の姿を取られた主イエスは、神としての栄光や特権をすべて捨てて、自分を低くされました。本当に心から他の人に仕える姿勢を持っている人は、祖他の人のために喜んで犠牲を払います。主イエスの生きるモットーは、第一に父なる神の栄光を表すことであり、第二に他の人の益となることでした。そのために、主イエスはご自分を低くされました。8節を見ると、まず「自分を卑しくした」と書かれています。ギリシャ語では「自分を空っぽにした」と書かれています。それは、主イエスが永遠の昔から持っておられた神として栄光の輝きを全部手放したことを意味しています。そして、次に人として性質を持って現れてくださいました。神と比べるとまったく弱く卑しい人間の性質を持たれました。そして死にまで従われました。罪を犯さない永遠の存在者であるキリストは神のままでは死ぬことはありえません。しかしながら、人としての性質を持つことによって死ぬことに従う決心をされました。しかも、その死は、当時のローマ帝国で最も惨めで残酷な死刑であった十字架の死にまで従われたのです。これは人間の罪がどれほど深いものであるかを示すと同時に、神様がどれほど罪を嫌っておられるかを示すものです。イエスの十字架の周りにいた人々は自分の罪深さに気づいていませんでした。彼らの罪が許されるために主イエスは十字架の上で苦しみを受けておられたのに、そこにいた人々、死刑を執行したローマの兵士たちも、イエスを十字架につけることを要求したユダヤ教の指導者たちも、群衆も、皆、極限の苦しみの中におられた主イエスをあざけり、ののしり、「あれは他人を救ったが自分は救えない哀れな奴だ。自分を救って見ろ。」と叫んでいるのです。もちろん、全能の神である主イエスは、簡単に十字架から降りることができましたが、自分の使命をはたすためにご自分の神の力を用いることはしませんでした。しかし、私たちが、今、すべての罪を赦されて永遠のいのちの希望が約束されているのは、主イエスが罪人たちのこのような反抗を堪え忍んで十字架の苦しみを全部受けてくださったからです。しかし、主ご自身は人々が救われる道が開かれることを思って、大いに喜ばれたのです。クリスチャンの人生は、キリストが生きられたように、逆説の人生といえるかもしれません。主イエスのように、他の人のために与えれば与えるほど、神様から多くの祝福を受け取ります。犠牲を払うほど、神様の栄光を見るのです。
(3)神の栄光を表す
 主イエスは、地上に来られた時に、ずっと自分を低い方へ低い方へと自分を低くしておられましたが、その御子イエスを父なる神は高くあげてくださいました。キリストが上に向かって方向が変わったのは、十字架の死から復活された時からです。イエスの十字架を目撃した人々は主の遺体が墓に納められた時に、すべては終わったと思いました。主イエスは「敗北した」と思いました。人間はそれ以上のことはできないのです。今度は神が働く番です。人間は人間にできる限り最悪のことを主イエスに対して行いましたが、しかし、父なる神は、そのイエスを高くあげられました。人々はイエスをあざけりました。しかし、父なる神は主イエスにすべての名にまさる名前をお与えになりました。死から復活された主イエスは、天に戻り父なる神の王座にお座りになったのです。主イエスは、ご自分で言われたように、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられる方です。パウロはローマ人への手紙8章33、34節で「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」サタンは私たちを罪に定めようとします。しかし、よみがえって今も生きておられる主イエスは天において、今日も、この瞬間も、私たちのためにとりなしの祈りをしておられます。
 私たちは、キリストの心を自分の心として生きる用に命じられています。キリストが人に仕えご自分を低くして十字架という大きな犠牲を払ってくださったので、私たちは、どんな罪も赦され永遠に神とともに生きるという栄光と祝福に満ちた約束があたえられました。私たちも、この世の人々が一人でも多く、この約束を受け取るために、主イエスの心を自分の心として、自分のためではなく人のために生きる者、人のために犠牲を払う者として生きる時、キリストがすべての名にまさる名前があたえられたように、私たちも、自分で自分を高くする必要はなく、神様ご自身がわたしたちを永遠の祝福と栄光で満たしてくださるのです。


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