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礼拝説教 2005-05-01『祈りの方法』(マタイ6章9〜15節)

(イントロ)
主イエスが神の子としての働きをした期間はとても短くほぼ3年でした。しかし、その短い3年間、主は多くの時間を祈りに捧げました。福音書を読むとわかりますが、主はよく朝早く起きて父なる神と交わるために祈りに行かれました。また、夕方にも主はよく一人山に登られて祈ることがありました。主イエスがそのような生き方をされたのですから、キリストの弟子として生きるクリスチャンたちは主イエスの生き方を見習うことが必要です。神様と十分に交わるためにも、また、聖書が約束しているように天からの祝福をいっぱいに受けるためにも、私たちは主イエスが祈られたように祈ることが必要です。しかしながら、私たちはどのように祈るべきか、祈りの方法も知らなければなりません。ヤコブの手紙の中に「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」と書かれています。聖書の中には祈りの力があちこちに記録されています。モーセが手を挙げて祈ったので、イスラエルの民はアマレク人をうち負かすことができました。ハンナが祈るとサムエルが生まれました。エリヤが祈ると3年間雨が降りませんでしたが、彼がその後、雨を求めて祈ると雨が激しく降りました。これらは旧約聖書に出てくる祈りの力のほんの一部分です。
祈りはクリスチャンにとって特権でもあり、また非常に大切なものです。それで、主イエスは6章の9節から15節で真実の祈りがどのようなものかを短い言葉で教えられました。ここには、いつ、どこで祈るべきか、またどんな姿勢でいのるのか何も言われていません。祈りはそのような表面的なことが大切なのではありません。祈りは、神様と一対一で語り合って交わることです。また、主の祈りは、暗唱するための言葉でもありません。もちろん、聖句を暗唱するように主の祈りを暗唱することはすばらしいことですが、大切なことは、その祈りに私たちの心が注ぎ出されていなければならないことです。私たちは主イエスが教えられた祈りの意味を知って、真実の祈りを神様にささげて行きたいと思います。この祈りは「主の祈り」と呼ばれますが、多くの人がこの祈りは、本当は「弟子たちの祈り」と呼ぶべきだと言っています。というのは、これが、主が祈られた祈りではなく主が弟子たちにこのように祈るように教えられた祈りだからです。この祈りには三つの行いが含まれていますので、それに従って見て行きましょう。
(1) 祈りは神に呼びかけることである
9節「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」
私たちの祈りは、誰に祈っているか分からない祈りではありません。祈っても聞いてもらえるのかもらえないのか分からない祈りでもありません。この世界を造り、また私たち一人一人のいのちをお造りになった創造主の神、唯一の神に向かって祈る祈りです。しかも、「イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」方です。私たちの祈りが決して無駄になることはありません。ところで、「天にいます私たちの父よ。」と呼びかけることは何を意味するのでしょうか。
一つは、私たちと神様の関係を表しています。ですから、主イエス・キリストを通して神を信じた者は誰もが神の子供となりました。ですから、私たちは「天の父よ」と呼びかけるのです。もし、私たちに天の父がおられることを知れば、私たちはどうなるでしょうか。第一に、私たちはいろいろな恐れや不安から解放されます。父親は子供を助け子供を守るためには全力を尽くします。だとすれば、天の父なる神様はどれほど私たちを愛し、私たちを守り、助けてくださるでしょうか。第二に、天の父がおられることを知れば、私たちは孤独・寂しさから解放されます。たとえ私たちが、この世界で家族やともだちに受け入れてもらえないとしても、私たちの天の父は決して私たちを見捨てる方ではありません。詩篇の68篇5-6節を読みましょう。父なる神様はこの世界で寂しい思いをしている人々と交わり慰めを与えてくださる方です。
もう一つは、祈りとは私たちがこのようなすばらしい神様に心からの尊敬を表すことを意味しています。「御名があがめられますように。」と祈ります。私たちの神様は「天の父なる神」です。1テモテ6章16節には「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」と書かれています。父なる神様は私たちを愛し、私たちと交わり、私たちの祈りを聞いてくださる方ですが、永遠の栄光と権威に満ちたお方ですから、私たちは、神様に対して馴れ馴れしくなってはいけません。私たちが礼拝を捧げるときも、私たちがどのような神様を礼拝しているのかということを忘れてはいけないのです。一般的に、祈りとはお願いをすることです。私たちも神に祈るのは神に願うからですが、主イエスは、私たちの祈りが一方的なお願いの祈りにならないように「御名があがめられますように」と祈ることを教えられました。神様の名前は、ただ単に呼び名というのではなく、神様ご自身を表すものであり、神様のご性質、御心、ご計画のすべてを含みます。私たちが神様を愛し、神様を敬うのは、私たちがただ神様の名前を知っているからではありません。神様がどんな方であるか、力と権威と愛に満ちておられる方であることを知っているからこそ神様を愛するのです。「あがめる」という言葉は「聖なるものとする」という意味ですが、私たちは、ただ神様の名前に敬意を表するということではなく、私たちの生活を通して神様ご自身をあがめることが大切です。第1テサロニケの5章でパウロが言ったように、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝して生活することが、神様の御名をあがめることにつながるのです。
(2) 祈りは願い求めることである
祈りという行為の基本は「願い求める」ことです。普段は神を信じないと言う人でも自分ではどうしようもないときに「神に祈るばかり」と言います。人間は神のかたちに似せて造られており、神と交わる心が本来与えられているのです。天の父なる神様は私たちが願い求めることを喜ばれます。ただ、何を願い求めるべきかということを私たちは知らなければなりません。主イエスは、まず第一に神様に関することを願い求め、二番目に自分のことを願い求めるように教えられました。10節に「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」とあります。私たちの祈りはどうしても自分のことが第一になりがちです。祈りの中で私たちはまず自分の必要、自分の計画、自分の願い、自分が理解できる説明などを求めます。ある人は、私たちの祈りは幼子の祈りだと言いました。幼い子供の世界は小さな自分だけの世界です。ですから、幼子にとっては世界の平和は関心がありません。子供にとって大切なことは、あのお菓子が食べられるのか、あの遊びができるのかということで、それが幼子の人生でもっとも大切なことなのです。私たちの祈りもそのような祈りではないでしょうか。また、私たちは、自分の周りの人々や状況が心配で祈ります。とりなしの祈りです。知人、知っている牧師・宣教師、国の指導者など。もちろんそれらの祈りもとても大切で、私たちは祈る特権と責任があります。しかし、主イエスは祈りにおいても神を第一にすることを教えられました。「御国がきますように」御国は「王様が支配する国」です。シーザーやナポレオンは力で自分の国をうち立てましたが、イエス・キリストは愛のうえに神の国を築かれます。ですから、「御国が来ますように」という祈りは、この世界に住む一人一人の人間の心の中に神様の支配が広がることです。神を知らずに悩み苦しんでいる人々の罪が赦され神様の愛が届くこと、つまりリバイバルを求める祈りです。また、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と祈るように主イエスは教えられました。私たちの人生において、またこの世界の歩みにおいて、もっとも大切なことは神様の御心が実現することです。ローマ人への手紙12章の1-2節でパウロは、一人一人のクリスチャンが自分から進んで自分自身の人生すべてを神様にささげるようにと勧めています。神様の御心を知り、その御心が実現することを願うためには、まず私たちが自分の願望、欲望を神様に明け渡すことが必要です。私たちが自分自身を捧げるときに、神様は、私たちを通して、良いこと、神に受けいられること、完全なことを行ってくださるのです。
第二に、主イエスは私たちのために祈ることを教えられました。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」私たちの毎日の必要のために祈ることですが、主イエスは3つのことを祈るように言われました。毎日の食べ物のこと、毎日の赦しのこと、毎日の霊的な誘惑、戦いのことです。主イエスが、これらのことを願い求めるように言われたということは、神ご自身が私たちが直面するこれらの必要のことを心配され、また、その必要を満たそうと思っておられることを意味します。「日ごとの糧」と訳されているところはギリシャ語では「毎日のパン」という意味ですが「パン」とは、私たちの物質的な必要すべてを代表している言葉です。全能の神が、この世を造られた神が、そして豊かさに充ち満ちておられる方が私たちの毎日必要のことを考えてそれを与えようとしておられることを知って生きる時に、私たちは不必要な思いわずらいから解放されるのではないでしょうか。第二に、私たちは自分の罪の赦しを求めるように教えられています。神様は私たちの罪を赦してくださるお方です。「負い目」という言葉は「罪」意味する言葉です。クリスチャンは毎日この祈りを祈ることが必要です。罪と汚れに満ちた世界に生きている私たちは、いつも、言葉や考えや行いにおいて罪を犯す誘惑に直面していますから、毎日、神様の赦しときよめを必要としています。しかし、感謝なことは、この赦しの必要のためにも、神様は満たすものを備えておられます。神様は私たちが祈りの中で自分の罪を言い表し悔い改めるなら、いつでも赦してくださいます。しかし、忘れてはいけないことは、一つの条件があります。それは私たちが他の人を赦すときに、私たちの罪も赦されるということです。第三に、霊的戦いの勝利を求めるようにと主イエスは教えられました。主イエスは、クリスチャンがこの世で日々サタンとの霊的戦いの中に置かれていることを示されました。主イエスは神の子としての働きを始める前に、40日間悪魔の誘惑を受けて、その誘惑に勝利されました。主はこの誘惑の苦しみを受けられたので、同じ苦しみを受けている私たちを助けることができるのです。主イエスは、私たちに誘惑に対する勝利を与えようと願っておられるのです。主イエスは私たちがどのような誘惑・試練に直面しているかご存じです。そして、主イエスは、私たちに勝利の力を与えてくださるだけでなく、その誘惑・試練から脱出する道をも備えてくださるのです。
(3) 祈りは神様に栄光をお返しすることである。
「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」(13節)
この最後の部分は後から付け加えられたものと考えられています。それは主な写本にはこの部分が欠けているからです。ですから、最近の聖書ではこの部分がかっこに入れられています。しかし、この最後の言葉は祈りを締めくくるのにふさわしいものです。祈りは神様に呼びかける行為であり、神様に願い求める行為です。しかし、最後に私たちは神様に栄光と誉れをお返しすることが必要です。国と力と栄え。これらは神様が罪人である私たちに示された愛を意味する言葉です。神様は信じる私たちの心の中に神様の支配と守りをうち立ててくださいました。そして私たちの生活の中に全能の力を働かせてくださっています。また、私たちを新しい人に作り替えて神様の栄光の姿を私たちの中に作り上げてくださるからです。そして、私たちが日々確認することは、神様の国と力と栄えは決して滅びることも消えることもなく、永遠に続くものであるということです。私たちの祈りは神様への全面的な信頼で締めくくるのです。
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