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礼拝説教 2005-05-22『何を求めて生きるか』(マタイ6:19-24)

(イントロ)
今日は「何を求めて生きるか」というテーマで、クリスチャンとしての生き方を精神的な面とに区別して考える傾向があります。しかし、主イエスご自身はそのような区別をしておられません。神様は私たちが豊かな生活をすることを嫌い、貧しい生き方をすることを望んでおられるのではありません。神様は、この世界とその中にあるすべてのものをお造りになったとき、神はお造りになったすべてのものをご覧になり、それらのものが非常に良いものだと宣言されました。神様は、私たちがこの世で生活するときに、いろいろなものが必要だということを良く知っておられます。パウロはテモテへの手紙第一6章17節で「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」と書いています。つまり、富や財産という物質的な豊かさは、それ自体が問題なのではなく、私たちがそれらのものに対してどんな心を持っているかが問題になるのです。物を持つことは悪いことではありませんが、物を持つことに心をとらわれることが問題なのです。
一つの宝
主イエスは言われました。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」当時のイスラエルでは、きれいな服や穀物や宝石などが財産と考えられていました。衣服は、今のように大量生産はできなかったためとても高価なものでした。お金持ちは時々、金の糸を織り込んだ服を造っていましたが、最高の服はウールで造ったものでしたが、ウールはよく虫がついて穴があきました。当時は「たんすにゴン」などなかったのでウールの服を虫から守ることは大変難しかったのです。また、穀物も財産でした。主イエスのたとえ話に「愚かな金持ち」の話がありますが、この金持ちはあまりにも多くの穀物が蓄えられた時に、「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しもう。」と思ったのですが、その日に、神様から「おまえの命は今夜取り去られる。」と言われてしまうのです。主イエスの言葉で「さび」と訳されている言葉は実際には「食べること」という意味を持っています。米や麦にも虫が付くことがあります。また、多くの人は宝石を持った場合、家の中のどこかに埋めて隠していました。しかし、イエス様の時代も、今と同様に泥棒が多くいて、よく家の中に忍び込み、隠してある宝石などを盗んで行きました。こういう訳で、どんな形で財産を持っているとしても、それらの財産がだめになったり盗まれたりすることを完全に防ぐことは不可能でした。
主イエスが19節で「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。」と言われたのはどのような意味でしょうか。地上で財産を蓄えることすべてを禁止しておられるのでしょうか。聖書の中に個人の財産を禁止する言葉はどこにもありません。むしろ、箴言6章には、なまけ者に対して「蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。」と書かれています。主イエスは「自分の宝」と言われました。もう少し詳しく言うと、「自分だけのために宝を積むな」という意味です。私たちが、財産をただ自分だけのために蓄えたり、自分だけのために使ったりするとき、それらの財産は偶像になってしまいます。宝というのはお金や財産だけに用いられる言葉ではありません。自分だけのために宝を蓄える人とは、この世にあるものから完全な満足感を得ようとする人を意味しています。この世にあるものとは、財産だけではなく、この世の名声、この世の地位、いろいろな能力なども、そういうものを握りしめて幸福感を得ようとする人、つまりそれらのものが自分の人生のすべてになっている人は、それらがその人の宝なのです。その人の生き方、考え方のすべては、その人の宝によって決まります。私たちは、心を奪われるものによって支配されてしまいます。これらの宝はいつか傷ついたりだめになったりします。あるいは盗まれてしまうかもしれません。そのような頼りにならないものを頼りにして生きてはいけないと言われたのです。しかも、私たちはこの世の死を迎えるとき、それらのものをすべて手放さなければなりません。アメリカに、芸術、特に絵画が大好きな富豪がいました。自分の家の中に立派なコレクションを持っていました。しかし、彼の死期が迫ったある日、彼は、自分が集めた絵画や彫刻が飾ってある部屋に行き、一つ一つをさわりながら「おまえとお別れだ」「おまえとはお別れだ」とつぶやきながら歩き回っていたそうです。旧約聖書でヨブが言っているように、わたしたちは裸でこの世に生まれ、裸でこの世を去るのです。
一方、主イエスは20節で「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」と言われました。宝を天に蓄えるとは、自分が持っているものを用いて他の人々に仕えたり、神様の働きが前進するのを助けたりすることを指しているでしょう。そのような目的のために使われたものは、すべて神様の記憶の中に残されていて、たとえで言えば、それらは天国にある私たちの口座の中に蓄えられるのです。私たちは天に蓄えた宝によって救いを得るのではありません。しかし、私たちが神様のためや他の人々のために用いた宝は、天に蓄えられるので、決してだめになることもなくなることもありません。私たちの人生は、この世で終わるものではないことをクリスチャンは知っています。すると、私たちの人生を評価するときに、この世の富、いつかは汚れ、さびがつき、消えてしまう頼りにならないこの世の富によって評価するのではなく、汚れることも、錆がつくことも滅ぶこともない天に蓄えられた富によって評価するべきではないでしょうか。主イエスは「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と言われました。私たちは、時々、自分の
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宝がどこにあるのかを点検することが必要だと思います。ある本の中に、自分の宝を点検するためのいくつかの質問が書かれていました。
何もすることのないときにあなたが考えていることは何ですか。
あなたが一番不平を言うのは何に関してですか。
家族以外に、あなたが失うことを一番恐れているのは何ですか
あなたは他の人を何を基準に評価しますか、その人の服装ですか、教育ですか、住んでいる家ですか、運動能力ですか、仕事での成功ですか、財産ですか?
これがないと幸せになれないと思うのは何ですか
あなたの宝があるところに、あなたの心もあるのです。一つの目
22節23節で主イエスは言われました。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」体のあかり、あるいは、体のレンズは目です。その目を通って光が中に入って来ます。体内に光を通すのは目だけです。視力に障害があると形があるものを見ることができません。一方、心の目がふさがれていると、霊的なものが見えなくなります。私たちにとっては、肉眼で見えるものよりも、肉眼では見えないもののほうが大切です。聖書にはいつまでも続くものは信仰と希望と愛ですと書かれていますが、これらのものも肉眼では見えません。しかし、心の目、霊的な目が開かれていると、それらの大切なものが見えてくるのです。主イエスは「目が健全なら全身が明るいが目が悪いなら全身が暗い」と言われました。日本語では「健全」と訳されていますが、ある英語の聖書では「single」と訳されています。両目が一つのものを見るときに焦点が合って、ものがはっきりと見えます。もし右の目と左の目が別々のものを見ていたら、どんな風に見えるでしょうか。私の目は少し乱視があるので、めがねを外すと夜空の月はいくつかの月が重なったように見えます。健全な目、一つの目とは、ひとつのものだけに向かっている心を意味します。そのような心は、神様から送られてくる光をたくさん取り入れることができ、神様からの教え、かみさまからの恵みをたくさん経験することができるのです。もし、心の目、心の窓が汚れて曇っていたり、ふさがっていたりすれば、中に神様からの光は入って行きません。もし、心の目がこの世の宝によってふさがっていると、神様からの霊的な教えや霊的な祝福が中まで届かないのです。私たちの目はどこに向けられているでしょうか。私たちの目は汚れていないでしょうか。何かによってふさがれていないでしょうか。ただ一つのものに向けられないで、いろいろなものに向けられていないでしょうか。ふたつの違った方向を見ながら前に進むことはとても危険なことでしょう。主イエスは、私たちの心が神様に栄光を表し、他の人々のために仕えて生きるとき、神様の光が私たちの全身を覆うと言われました。真実の光に満ちた人生が本当に確かな人生と言えるのではないでしょうか。一人の主人
24節で主イエスは言われました。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」主人という言葉は、イスラエルでは普通、「奴隷の所有者」という意味で用いられます。奴隷の主人は奴隷を完全に支配する権利を持っています。奴隷には、アルバイトの奴隷とか、パートの奴隷などはいません。フルタイムの奴隷は一日24時間、主人の命令に従わなければなりません。ですから、一人の奴隷が二人の主人に仕えることはまったく不可能なのです。新約聖書では、キリストは私たちの主であると教えています。キリストが主ですから、私たちはキリストの奴隷なのです。私たちはクリスチャンになる前は罪の奴隷でした。自分の人生は自己中心という罪の生き方に支配されていました。しかし、主イエスを救い主として信じたときに、私たちは罪の支配から解放されて、神が所有する奴隷になったのです。ですから、私たちは、100%キリストに従うことを約束できないなら、イエス・キリストを主とは呼べないのです。私たちは、富と神という二人の主人に同時に従うことはできません。どちらか一つを選ばなければならないのです。イエス・キリストを主人として生きる人は、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすために生きる人です。あなたは、神に仕えて生きる人でしょうか。それとも富に仕えて生きる人でしょうか。
一つのお話をして終わりましょう。ある農夫が飼っていた牛が双子の子牛を生みました。一匹は黒で一匹は白。彼は大喜びで家族に報告しました。そして言いました。「私は、この双子の子牛を育てて、大きくなったときに、一匹を神様に捧げることを決心した。すると彼の奥さんが尋ねました。どちらの子牛を捧げるのですか。すると彼は次のように答えました。「今は心配しなくても良い。2匹を同じように育てて、時が来たらそのうちの一匹を捧げるのだ。」
それから数ヶ月後、その農夫が暗い表情で家に帰って来ました。彼の妻が心配して「何かあったの」と聞きました。すると彼が「悪いニュースがあるんだ」と答えました。「主に捧げる子牛が死んだのだ。」奥さんが彼に尋ねました。「でも、あなた、どちらの子牛を神様に捧げるか決めてなかったでしょう?」「いや、わたしは前から決めていた。神様に捧げるのは白い方だと。そして白い方が死んだのだ。神様に捧げる子牛が死んだ。」
私たちの生活においても同じようなことをしてはいないでしょうか。経済の状態が厳しくなったときに、私たちが最初に削るのは神様に捧げるものではないでしょうか。あなたの心はどこにあるでしょうか。私たちの中にある光は今も輝いているでしょうか。それとも暗くなっているでしょうか。私たちはどちらの主人に仕えているでしょうか。富でしょうか、神でしょうか。
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