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礼拝説教 2005-05-29『思い煩いからの解放』(マタイ6章25-34節)

(イントロ)
マタイの福音書6章19節から24節で主イエスは、物質だけを求めて生きる人生に対する警告の言葉を言われました。それに続く25節から34節の箇所では、物質主義の生き方に伴うもう一つの問題について教えておられます。それは思い煩いという問題です。人は明日自分がどうなるかということも分かりませんから、色々なことについて心配します。仕事をしている人にとっては自分の仕事のこと、リストラになるかも知れないことなどについて心配します。母親は子どもの将来について心配します。学生ならば成績やこれからの進路について心配します。今日の社会を行きて行くにはしんぱいがつきものです。心配のないじんせいなどあり得ないと私たちは思います。主イエスは、心配すること、心を配ることが全部悪いと言っているわけではありません。心配には、良い心配と悪い心配があるのです。主はある時こう言われました。「建物を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。」私たちが自分の人生について計画を立て、計算して備えることは必要なことです。人生の計画を立てる時に慎重に考え用心深く計画をたて落ち着いて生きることは大切です。それらは良い心配です。では、悪い心配とは何でしょうか。ユダヤ人の言葉に「かごの中にパンを持っていながら『明日何を食べようか』と聞くのは不信仰である」という言葉があるそうですが、悪い心配とは、19節から24節で主イエスが教えられた物質主義、どん欲な心、自己中心的な生き方に関係します。一般的に言って、多くのものを持っている人ほど心配も多いようです。今自分が持っているものをどのように守ろうか、どのように増やそうか、盗まれないようにするのはどうしたらよいかなどと心配するからです。そして、大抵の場合、主がここで述べられているように、人は何を食べるか、何を飲むか、何を着るかと言って思い煩います。ここで「思い煩い」という意味で用いられている言葉はギリシャ語の「メリムナ」という言葉です。これは心配で夜も眠れないような状態を表す言葉です。人はこのような思い煩いのために心が不安でいっぱいになり眠ることもできず、体も弱り生きる喜びも失っているのです。私たちはこの思い煩いをどのように対処すれば良いのでしょうか。
思い煩いは不信仰である
主イエスは25節で「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」と言われました。英語では心配のことをworryと言うのですが、これはもともとドイツ語で「首を絞める」という意味の言葉から造られたものです。心配することは首を締め付けるようなものです。わずかコップ一杯の水分で、厚さ30メートル長さ500メートルもの霧ができるそうです。私たちの思い煩いも、大抵の場合、原因となった問題よりもずっと大きくなっていないでしょうか。だから、思い煩いは私たちの心を縛り付けてしまうのです。思い煩いは弱さではなく不信仰の罪です。思い煩いがなぜ不信仰なのでしょうか。思い煩いは、満ち足りる心の反対だからです。テモテの手紙第一6章の6-7節でパウロは次のように言いました。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。」クリスチャンは満ち足りる心を持たなければなりません。そして、クリスチャンは何に満ち足りるかと言うと、神様ご自身に満ち足りるのです。それ以外の何ものでもありません。ただ神様にのみ満ち足りるのです。
どのように私たちは神様に満ち足りるのでしょうか。第1に神様がすべてのものの所有者です。ダビデは詩篇の中で「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」と言いました。私たちが今持っているもの、また、これから所有するものもすべては神様のものなのです。また、聖書は、神様がこの世のすべての部分を支配しておられると教えています。人間は何でも自分の力で行動し、歴史を築いてきたかのように考えがちですが、本当は、すべてのものごとの背後で神様が支配しておられるのです。一つの例として、イスラエルという国の存在が挙げられます。イスラエルは紀元1世紀にローマ帝国によって滅ぼされてからユダヤ人は世界中に散らばり流浪の民となりました。聖書は最初からユダヤ人は一度世界中に散らされてもう一度集められると預言していましたが、一度国を失って世界中に散り散りバラバラになった国民が再びもとの場所に自分たちの国を築くとは誰も予想していませんでした。しかし、不思議な歴史の流れのなかでイスラエルは第二次世界大戦後1900年ぶりに建国されたのです。この例に見られるように、この世界を本当に支配しておられるのは神様です。また、神様は備えることのできる方です。神様の名前の一つに「アドナイ・エレ」というのがありますが、これは「主の山には備えがある」という意味です。最も偉大な所有者であり、支配者である方は、世界一の私たちに与えてくださる方です。主が言われた何を食べるか、何を飲むか、何を着るかという必要は、人間のもっとも基本的な必要です。私たちは自然と富に恵まれた国、時代に生きていますからその必要性をあまり感じませんが、イエスの時代の人々にとって、食べ物、水、着物は当たり前に手に入るものではありませんでした。しかし、神様は、これらのものが私たちにとって必要なものであることを良く知っておられます。ただ、食べ物も水も着物も私たちの体に関係するものですが、主イエスは、いのちは体よりも大切だと言われました。体を大切にすることは大切です。私もたくさんやせて健康な体にしなければなりません。多くの人が健康食品を食べたり、エステに通ったり、おしゃれをしたりと自分の体のことをとても大切にしています。しかし、体がいのちの源ではありません。いのちの源は神様で、体はその神様から与えられたものです。神様が一人一人に色々なものを与えてくださいますが、その量は一人一人違います。しかし、それらの持ち主、管理者、供給者は神様なのです。私たちは、神様から与えられたものに感謝し、それをうまく管理することが求められているのです。
心配は不必要である
26節から30節のところで主イエスは私たちが心配することは不必要だと教えておられますが、主は、それは天の父なる神様がおられるからだと言っておられます。この箇所では3つの心配について述べられています。一つは食べ物についての心配です。主イエスは「空の鳥を見よ」と言われました。鳥は、他のすべての動物と同じように神様から命を与えられましたが、ただ命を与えられただけではなく、鳥の周りに鳥の食べ物となるものを十分に造り、また、一羽一羽の鳥にえさを見つける本能と能力を備えておられます。
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主イエスは、鳥が食べ物を得るのに何もしないと言っているのではありません。鳥は、実際には、えさを集めるためにあちこち飛び回っています。カラスはゴミ箱をあさっています。すべて、自分の家族、子どもに食べ物を与えるために働いているのです。ただ、鳥たちは自分が集めているえさがどこから来ているのか、明日の食べ物はあるのだろうかなどと心配することはしないのです。とにかく食事の時間になったらえさをあつめ、終われば何か他のことをして、また食事の時間になればえさを集めるのです。彼らは、えさはどこかにあることを知っているのです。言い換えると、えさは備えられていることを知っているのです。そんな小さな鳥にもこのように養ってくださるのが天の父なる神様です。私たちは、鳥とは違って、神様のかたちに似せて造られた者です。神様と交わることができるように造られています。私たちは鳥よりも遙かに神様に近い存在です。鳥を養う神様は私たちをも養ってくださるはずです。
2番目は命に関する心配です。私たちは誰でも一日でも長生きしたいと思います。長く生きるために人々はたくさんのお金を使っています。運動したり、食事を考えたり、サプリメントを飲んだり、健康食品の会社は大もうけしています。それらは、適切に行えば私たちの健康を保つことができます。しかしながら、一人一人のいのちの長さを決めるのは神様です。それらによっていのちの長さを延ばすことはできません。第1に、わたしのいのちは神様が造ってくださいました。ですから、神様は、私たちが神様から与えられた命をきちんと管理して生きることを願っておられます。私たちが何年生きるかということを心配するよりも、自分のいのちを何のために用いるのかということを考えることのほうが大切です。私たちは神様から与えられたいのちを神様をあがめるため、神様に喜んでもらうため、神様の栄光を表すために用いることに気を配ることが大切なのです。
3番目は着るものに関する心配です。日本では、今、着るものがなくて困っている人はほとんどいないと思います。ですから、私たちの着るものに関する心配は、着るものがないからではなく、人々の注目を集めるために何を着たら良いのかという心配です。私はユニクロなどで服を買うことが多いですが、デパートに行くと、「どうしてこんなに高いの」「材料費はいくらなんだ」と思うような値段をつけた服がいっぱいあります。人目を引くような服、かっこよく見える服を着たいという思いは、自己中心的な思いから着ています。どんなに美しい花でもすぐに汚くなり枯れてしまいます。人間の価値はその人の外見にあるのではありません。私たちの内側に価値があるのです。
思い煩いは自己中心の罪です。思い煩うのは神様を信頼していないからです。神様の約束を信じていないのです。御言葉の約束を信じないで、周りの状況や、自分の考えや理解力だけで物事の判断をしているのです。パウロはエペソの教会の人々のために祈りました。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」
思い煩いは理屈に合わない
思い煩いと信仰は両立しません。主イエスは「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。」と言われました。異邦人とは神様を信じていない人々のことです。天地創造の神を信じない人々は、当然のことながら、自分たちが今持っているものを頼りとします。この世でものを持っていることに安心を感じるのです。神様が備えてくださることを知らずに、何でも自分で手に入れて、そこに満足を感じるのです。主は「愚かな金持ち」のたとえ話を話されましたが、その金持ちは働く必要がないぐらいの財産がたまったので、今日からは食べて飲んで楽しもうと決心しました。しかし、その夜神様からの声がありました。「お前のいのちは今夜取られる。そうすれば、お前が蓄えたものは誰のものになるのだ?」頼りにならないものを頼って生きることはどれほど危険なことでしょうか。
そんな不合理なことをする代わりに、主イエスは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と言われました。心配が生じるのはこの世のことだけを考えるからです。ですから、思い煩いから解放されるためには神の国と神の義を求めることが必要だと主は教えておられます。神様に目を向けて生きるなら神様が必要を満たしてくださると主は約束されました。神の国を求めるとは神様が自分の人生を支配すること、神様の権威、神様の御心をつねに求め続けることを意味します。また、私たちは神の義を求めるようにと命じられています。私たちはこの世の楽しみ、この世の持ち物を求めて心を満たそうとするのではなく、この地上で神様と同じような聖い生き方を求めることとともに、来るべき世界、永遠の世界を目標にして生きることが、神の義を求めることではないでしょうか。34節で主イエスは「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」と言われました。明日のために必要な備えをすることは大切ですが、明日のことを思い煩うことは愚かなことです。神様は、今日の神様であるだけでなく、明日の神様でもあるからです。礼拝でもよく歌いますが、父の神様の恵みと真実は朝ごとに新しく与えられるのです。主イエスが「明日のことは明日が心配する」と断言されました。それは明日という時も永遠に変わることのない神様の手の中にあるからです。神様は、毎日、新しい恵みを与えることを約束しておられます。しかし、神様は明日の恵みを今日与えることはなさいません。神様は、私たちに今日必要な恵みを与えてくださるのです。主なる神様はとこしえの岩です。永遠に信頼できるお方です。世界は絶えず変わっていますが、決して変わることのない神様を信頼して、不信仰な思い煩い、不必要な思い煩い、不合理な思い煩いから解放されて生きる者でありましょう。
こんな話を読みました。ロンドンが激しい空襲を受けて居たときのことです。一人の父親が息子を腕に抱いて、家から飛び出し、いそいで防空壕に行きました。父親が先にあなに飛び込むと上に手を伸ばして息子に飛び込むように言いました。息子は穴の中が暗くて父親が見えないので怖くて叫びました。「お父さんが見えない。」父親からは息子の姿が見えていました。「お父さんはおまえが見えている。さあ、飛び込むんだ。」少年は飛び込みました。父親を信頼したからです。クリスチャンの信仰は、人生の問題に直面したり死に直面したりするときに乗り越える力を与えてくれます。しかし、それは、私たちが答えを見ているからではなく、神様に見られていることを確信しているからです。問題の答えを知っているからではなく、私が神様によって知られていることを知っているからです。神様の全能の力と無限の豊かさを信頼して歩み続けましょう。
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