2005礼拝めっせーじ

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メッセージ2005


礼拝説教 2005-06-26『人生の土台を築く』(マタイ7章24-29節)

(イントロ)
 福音書は私たちに決断を迫る書物です。主イエスは5章から始まった山上の説教の締めくくりの部分で、話を聞いていた群衆に向かって「わたしの話を聞いてなたはどのように生きることを決心しますか?」と尋ねておられます。前回の部分では、主は人々に向かって「あなたは狭い門を通って永遠のいのちを目指して歩きますか、それとも広い歩きやすい道を歩いて滅びに向かいますか?」と尋ねられました。今日の箇所では、主は、私たちの選ぶ道は二つしかないことを示されて、そのどちらを選ぶかを迫っておられます。
 岩の上に家を建てる人生か、砂の上に家を建てる人生か、私たちの人生はそのどちらかであると主は言われます。21世紀は多様性を重視する時代です。「人は自分が好きな道を選べば良いのだ」という考え方です。信仰について言えば、史実に信じる信仰心が大切であって、何を信じるかはその人の自由だ」とする考えです。その考えによると、神様は山の頂上におられて、人は自分が選んだ好きな道を上れば良いのです。どの道も結局は神様のところに至ると考えているからです。それに対して主イエスは、イエスを選ぶか、イエスを選ばないか、人間の人生はそのどちらかであると主張するのです。現代にとっては非常に排他的に聞こえる主張です。クリスチャンは決して傲慢になってはいけませんが、主イエスが神と私たちを結ぶ唯一の仲介者であると言う教えから離れてはなりません。この教えは私たちが自分の宗教を自慢するための教えではありません。ボーンヘッファーという人はこう言いました。「主イエスキリストは宗教を破棄するためにこの世に来られた。」宗教とは、人間が自分の良い教えを信じ良い行いをすることを通して神に受け入れられようとする努力だと考えられています。宗教は人間が自分を神と結びつけようとする行いです。宗教を意味する英語の言葉はReligionですが、これは元々「強く結ぶ」という意味の言葉です。しかし、聖書の教えは宗教ではありません。人間側から出発しているのではなく、神様が人間に近づいた下さり、私たちにご自身を表してくださり、救いの道を提供してくださったのです。ですから、キリスト教は「啓示」の宗教と言われるのです。その神様が、私たちに示された道は一つしかないのです。主イエスは、7章の終わりで、神の道を選ぶ人は岩の上に家を建てた人のようだと言われました。そして、神の道を選ばない人は砂の上に家を建てた人に似ていると言われました。
 パレスチナでは家を建てる時に、特別な注意が必要でした。パレスチナには溝のようになった砂の窪地がたくさんあります。そしてその窪地は夏の間は熱い風が吹かず日陰にもなっているので住み心地の良い場所です。しかし、雨の多い冬になると、その窪地は川になって水が激しく流れるのだそうです。家を建てようと思っている人が、夏に、そのような住み心地の良さそうな窪地を見つけて、家を建てると、冬になるとその家は水に押し流されてしまいます。そういう訳で家を建てる時はよくよく注意しなければなりません。イエスの話を聞いていた人々にとっては今日の主イエスのたとえ話は非常に身近なものであったでしょう。
(1) 家を建てた二人の人の似ている点
 第一に、二人はともに主イエスの教えを聞きました。24節と26節に「わたしのこれらのことばを聞いて」と同じ言葉が使われています。二人とも、主イエスの教えを聞いて、人はどのようにすれば罪が赦され救いを受けることができるのかということを知っていました。そして二人とも、家を建てています。二人とも、主イエスの言葉を聞きました。主イエスの教えを聞いた結果、二人とも家を建てようと決心しました。家を建てることは人生を築くことにたとえられると思います。二人とも、主イエスの話を聞いて彼らは自分の人生をどのように生きるかを決めて生活をしています。だれも、最初から壊れると分かっているような家を建てることはありません。ですから、岩の上に家を建てた人も、砂の上に家を建てた人も、自分の家がいつまでもしっかり立っていると思っていたはずです。第三に、二人は同じような場所に家を建てました。というのは、両方の家とも嵐に遭っているからです。言い換えると、岩の上に家を建てた人も砂の上に家を建てた人も、同じような環境の中で生活をしているということです。二人とも、人生の中に喜びを経験し、また悲しみを経験しています。成功する時もあれば失敗するときもあります。このことから、私たちは、同じような境遇の中で生きていても、まったく違う生き方をすることがありうるのです。第四に、二人は同じような家を建てたと思われます。私たちが家を見るときには、たいてい見に見える部分を見て、その家を評価します。壁や屋根の色、内装、設備、それらを見て、「この家はいい家だ」とか「この家は材料があまり良くない」などと判断します。おそらく、主イエスは、このたとえ話の中で、二人の人が建てた家は、外観だけでみると全く同じだということを言っておられるように思います。私たちが、他の人の生き方を見て、「あの人は敬虔なクリスチャンだ」とか「あの人は本当にクリスチャンなのだろうか」などと評価します。二人は、外見だけで判断すると全く同じような生き方をしていたと思われます。
(2) 家を建てた二人の人の相違点
 家を建てた二人の人、また、二人が建てた2軒の家は、ともに外から見るとまったく同じように見えました。二人の違いがどこにあるかと言うと主イエスの言葉によれば、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう人」と「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない人」の違いです。一人は神様の教えに従って家を建てました。もう一人の人は自分の考えに従って家を建てました。中でも、二人が建てた家の最も大きな違いは、建物の基礎の部分にありました。岩の土台の上に建てられた家と砂の土台の上に建てられた家です。「岩」と訳されている言葉は普通の岩ではなく、非常に大きく広い岩盤を意味する言葉です。一方、パレスチナには夏は普通の土地のように見えて、冬の雨が多い季節になると川になってしまうような場所があちこちにありました。そのような土地は砂で覆われていました。
 岩とは何でしょうか。それはイエスの口からでる言葉を意味すると思います。イエスの言葉を聞いて、その教えの従って行動する人は、イエスの教えという決して変わることのない、決して消えることのない岩盤の上に家を建てる人だと言えるでしょう。主イエスが弟子たちに「あなたは私を誰だと思いますか」という質問に対して「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えました。するとそのとき、イエスは次のように言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」これは今年の目標の聖句になっている言葉です。ここでも主イエスは「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われましたが、この岩とは、父なる神様がペテロに示された神の言葉、神の教えを意味しています。クリスチャンの人生というのはこの岩の上以外に建てあげることはできないのです。一方、砂とは何を意味するのでしょうか。主イエスは、山上の説教を通して本当の神の教えと、人間が作り出した伝統、言い伝えを対比させておられます。そういうわけで、人間が作り出した言い伝えにこだわっていたパリサイ人や律法学者に対しては非常に厳しい言葉を言われました。彼らの生活は、人間の目には敬虔な生き方に見えるものでしたが、彼らはお祈りをするときも、施しをするときも、献金をするときも、断食をするときも、いつも人々の目を意識して、人々に見せるための行いでした。表面的なものですから、彼らの宗教的な生活は行いだけであって、心の中にまで届いていませんでした。彼らは神の教えの心から従うことよりも、自分の生活が人々の目にどのように映るかということを気にしていたのです。
 主イエスは、岩の上に家を建てる人は「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう人」と言われました。「それを行う」とは「主イエスが語られた教えを実行する」という意味です。英語の聖書では「私の言葉を聞いて、その言葉に基づいて行動する人は」と訳されています。イエスの教えを聞いて、その教えのすばらしさに感動する人はたくさんいます。しかし、イエスキリストを本当に信じるならば、ただイエスの教えを聞いて感動するだけは不十分なのです。それを行う人でなければなりません。イエスの教えに基づいて行動するとはどういうことを意味するのでしょうか。私たちはイエスの教えを聞いて、イエスの教えの基準に従って自分自身を見ているでしょうか。イエスの道徳的な教えに従って、自分の生活を聖く保っているでしょうか。山上の説教のすばらしい御言葉を聞いて、私たちは祈りの中で、また実際の生活の中で、御言葉と正面から取り組んでいるでしょうか。もし、私たちがそのような生き方をしているならば、私たちは岩のうえに自分の家を建てているのです。
 一方、ヨハネの第一の手紙2章4−5節には次のような言葉があります。「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。」言い換えると、主イエスの教えを聞いても、その教えに従って生きようとせずに、自分の考え、この世の考え方に従って生きるならば、その人は、広い門から入って滅びに至る道を歩いている人であり、砂のうえに家を建てるような人なのです。私たちを罪から救い出すのは、私たちの伝道活動や、奉仕活動や、聖書の知識ではありません。イエス・キリストと共に歩んでいること、イエスの教えに従って前へ進もうと努力している人です。
(3) 二人の違いが分かるとき
 25節で主イエスは「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつける」時が来ると言われました。雨、洪水、風、これらはすべての人が通らなければならない神様による最後の審判の時を表していると考えられています。嵐は、人が建てた家が受けなければならない最後の審判です。私たちの生活が本当に主イエスを救い主と信じる信仰に基づく生活であるにせよ、見せかけの生活であるにせよ、すべての人は神様が与えるテストを受けなければなりません。ある人は、見せかけの信仰者は偽札のようなものだと言いました。あなたがスーパーでおつりに偽札をもらったとしましょう。偽札とは知らずに別のお店でそれを使います。そのお店の主人はそのお金でお店で働いている人に給料として支払います。給料をもらった人は、そのお金を銀行に預けに行きます。すると、そのお金は偽札ですから銀行では受け取ってもらえません。この偽札は、町中で使われている間は、いろいろな働きをします。しかし、銀行に来ると、その偽札の正体がばれて、そのお札は使うことができなくなります。そのように見せかけの信仰者は、さまざまな働きをすることもできるでしょう。しかし、神様の前に立つときに、その本当の姿が明らかになり、天国には入ることはできません。
 主イエスは、このたとえ話を通して私たちに何を伝えようとしておられるのでしょうか。それは、御言葉の厳粛な権威です。そして、私たちに神様に対する健全な畏れを持つことを願っておられます。私たちは、聖書の教えの一部だけ、自分の好きなところだけを信じることはできません。その教え全体を信じ受け入れるか、拒否するかのどちらかです。信じ受け入れる人は、気をつけて自分の人生を建て上げなければなりません。ルカの福音書では岩の上に家を建てた人は「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた」と書かれています。慎重に地面を掘り下げ、土台を据えてから家を建てました。私たちは、聖書の言葉を軽く考えるのではなく、その教えを初めから終わりまで、厳粛な思いをもって信じ、その教えに基づいて生活しなければならないのです。その生活は決して簡単ではありません。しかし、最後の審判の時に、私たちの生き方の本当の価値が明らかにされ、永遠の祝福へと導かれるのです。そのゴールをしっかり見据えて、一日一日を、気をつけて生活しなければなりません。


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