2005礼拝めっせーじ

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メッセージ2005


礼拝説教 2005-07-03『大きな信仰』(マタイ8章5〜13節)

(イントロ)
 マタイの福音書は主イエス・キリストを「王」として描いています。5章から7章まで続いた山上の説教で主イエスが言われたことは、神様の王国ではどのような原則で生きるべきかという教えでした。そして、8章と9章では、マタイは王として来られた主イエスの力を示しています。もし、王が力を持っていなければ、その王がどのような教えを語ったとしてもむなしい教えに過ぎません。しかし、マタイは8章と9章で主イエスが行われた10の奇跡をまとめて描くことを通して、私たちの主イエスがどれほど力に満ちた王なる方であるかを教えています。
 ところで、主イエスはなぜ奇跡の業を行われたのでしょうか。主イエスは、自分の人気を上げるために奇跡を行うことはありませんでした。主が奇跡を行われたことにはいくつかの理由があります。第一に、主イエスは、私たちが抱えているさまざまな必要に目を留めてくださり、その必要を喜んで満たしてくださる方です。神様は、私たちの永遠的な必要のことだけを心配してくださるのではなく、私たちの日々の生活の小さな必要をも心に留めてくださるのです。第二に、奇跡の業を行うことは、主イエスこそ旧約聖書が預言している救い主メシアであることを証明することになりました。イザヤ書の35章4節から6節には救い主に関する預言が書かれていますが、主イエスの3年半の働きの中で主は、しばしば人々の病気を癒し、いろいろな障害を癒されました。第三に、主は、奇跡の業を通して、人々を罪からの救いへと導こうとされました。ヨハネの福音書の3章ニコデモという人物が主イエスの会いに来た記事が書かれています。彼はユダヤ教の教師でしたが、主イエスがなされた不思議な業を見て、主イエスに対して興味を持ちました。そして主イエスとの出会いと会話を通して、彼は救いにみちびかれたのです。
(1)百人隊長の信仰
 今日の箇所では、主イエスが奇跡を行われたのは、ローマの軍人である百人隊長のもので働いていた彼の奴隷の病気を癒すことでした。百人隊長はローマの軍隊で中心的な働きをしていた指揮官でした。ローマ軍は6000人で一つの軍団を構成し、軍団は60の百人隊に分かれていました。百人隊長とは、百人隊のリーダーで100人がつねに軍の規律を守り一致団結して戦えるように隊をまとめる責任が与えられていました。そのため百人隊長に必要な資質は「危険を冒す冒険心よりも、部下をまとめ着実に行動するしんらいできる指導者であること」と考えられていました。ローマの軍隊の指揮官である百人隊長はユダヤ人からひどく嫌われていましたが、不思議なことに新約聖書に登場する百人隊長は、皆、立派な人物でした。しかも、ここに登場する百人隊長にはユダヤ人からも愛されていた人でした。ルカの福音書にはそのことが書かれています。ルカの福音書を見ると、この百人隊長は先にユダヤ人の長老をイエスのもとに送っているのですが、そのユダヤ人たちが「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」と言っています。ユダヤ人の会堂を建てたことを見ると、この人は、神を畏れる人であったことが分かります。また、彼は、自分の奴隷を大切に扱っていました。マタイの福音書では、奴隷と訳されている言葉は「子供」という言葉が使われています。ですから、まだ非常に若い奴隷であったことが分かります。当時、一般のローマ人は奴隷を人間とは見なさず、生活の便利な道具だと見なしていました。ですから、病気になった奴隷は捨てられることが多かったそうです。しかし、この百人隊長はユダヤ人の奴隷を心から愛していました。そして奴隷が癒されるようにと主イエスのところユダヤ人を先に送り、後から自分も主のところに来たようです。
 百人隊長は2回繰り返してイエスに向かって「主よ」と呼びかけています。これは単に礼儀上の言葉ではなく、彼はローマ人でしたがキリストが神であることを信じていたように思われます。しかも、彼はイエスには重い病気にかかっている奴隷をいやす力を持っていることを確信していました。その奴隷の病気は非常に重かったため、奴隷をイエスのところへ連れてくることはできませんでした。本当は、主イエスに自分の家に来てもらって奴隷のために祈ってもらいたかったはずですが、彼は自分がユダヤ人ではないので、主イエスに自分の家に来てもらう資格がないと思いました。というのは、ユダヤ人は異邦人の家に入ると宗教的に汚れると律法に定められていたからです。そこでこの百人隊長は主イエスに「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」と言いました。おそらく、この百人隊長は、それまでに主イエスが大勢の人々を癒された話を聞いていたのでしょう。あるいは、自分の目で主が人々を癒された様子を見たかも知れません。百人隊長は、主イエスは例え距離が離れていても人々を癒す力を持っていることを確信していたのです。
 さらに、彼は自分がイエスの癒しの力を確信していることを自分の軍人としての経験から説明しています。彼は軍人として重要な地位についていましたから、彼には大きな権限が与えられていました。ですから、彼が部下に命令すると、部下はその命令に服従することを知っていました。この百人隊長は、そのような軍隊での経験を通して、高い地位についている者に与えられている権威、権限がどのようなものであるかを知っていました。彼は、信仰の領域、いやしの領域においても、それは同じだと考えたのです。彼が命令一つで部下を自由に動かすことができるのなら、神としての権威と力を持っている主イエスなら、言葉を述べるだけで自分の奴隷を癒すことは簡単なことだと確信していました。
(2)イエスの警告の言葉
 百人隊長が話す言葉を聞いていた主イエスは彼の信仰に驚きました。そして、主の教えを聞こうとして主について来ていた人々に向かって言いました。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」多くのユダヤ人が主イエスを信じていたのですが、主イエスは百人隊長の心の中を全部見抜いておられました。彼がどれほど若いユダヤ人の奴隷を大切にしていたか、どれほど愛していたか。また、彼がどれほど主イエスの権威や力を信頼していたのか、また、彼がどれほど謙遜な人物であるかも知っておられました。主の弟子たちは主イエスと生活をともにし、いつもその主の教えを聞いていましたが、主イエスから何度も「信仰の少ない者たちよ」と言われていました。一方、この百人隊長はこの日まで主イエスを直接話したことは一度もありませんでした。しかし、主イエスの権威と力を信じる信仰は弟子たちよりも遙かに大きかったのです。
 そして、主イエスはさらにユダヤ人たちを驚かせることを言われました。「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」アブラハムから始まった神に選ばれた民、ユダヤ人たちは信仰の面においては、他の民、異邦人たちよりもはるかに恵まれていました。彼らは自分たちがアブラハムの子孫であることを誇りにしていましたが、彼らの多くは主イエスを救い主として受け入れることなく、主の教えに対してもあまり関心を示していませんでした。しかし、彼らは、異邦人が天国に行けるとは考えていなかったので、この主イエスの言葉は彼らにとっては大変ショッキングなものでした。神に選ばれた民よりも、異邦人たちが積極的に主イエスを信じたのです。この福音書を書いたマタイ自身もユダヤ人です。血筋を重んじるユダヤ人のためにマタイはこの福音書を書くときにイエスの系図から始めました。しかし、8章でマタイが主イエスの言葉を記録したのは、ユダヤ人たちに、救いは血筋によって得られるものではなく主イエスを信じる信仰によって与えられることを教えるためだと思われます。当時カペナウムに住んでいたユダヤ人にとって、この言葉はどれほどの衝撃を与えてことでしょうか。当時のユダヤ教の教えでは、すべてのユダヤ人は天国で宴会の席に招かれ、異邦人のいないユダヤ人だけでごちそうを食べると考えていたそうです。それに対して、主イエスは、天国では、「御国の子らは外の暗闇に放り出され、そこで泣いて歯ぎしりをする」と言われました。神様はユダヤ人には特別な約束を与えていたのですが、この世の本当の支配者である主イエスが来られた時に、主を信じなかったために、ユダヤ人の特権は取り去られてしまったのです。アブラハムの子孫であることはすばらしい特権なのですが、しかしながら、アブラハムの子孫であることが私たちに罪からの救いをもたらすのではありません。ですから、そのようなユダヤ人は天国の宴会の席には招かれないのです。これは、私たちにとっても厳粛な教えです。教会に属しているというだけでは救いの保証にはなりません。私たちは、いつも主イエスを主と仰ぐ関係の中に生きていなければならないのです。
(3)百人隊長の大きな信仰
 主イエスは「百人隊長のような信仰をイスラエルの中に見たことがない」と言われましたが、この言葉の中には、主イエスの悲しみが含まれているように思います。主は、百人隊長のような信仰を、神様によって選ばれた民であるユダヤ人の中に見たかったのです。イエスのもとに癒しを求めて大勢の人がやってきました。会堂の管理者であったヤイロは自分の娘の病気を治してくれるようにと主イエスに求めましたが、ヤイロは主イエスに自分の家に来るように求めました。また、イエスと親しかったラザロが死んだ時、姉のマルタは「主がもしここにいて下さったら弟は死ななかったでしょう。」と言っています。彼らは主イエスの癒しは、病人の横にいなければ起こらないはずだと条件をつけた信仰を持っていました。しかし、この百人隊長はイエスの言葉さえあれば、たとえ距離が離れていても、主の力は十分に発揮されることを信じる信仰を持っていました。私たちは、主イエスを見る時に、自分の常識、自分の限界によって判断することがないでしょうか。主イエスは地上から離れる最後の時にこう言われました。「わたしには天においても地においても一切の権威が与えられています。」つまり、この世界のすべてのことは主イエスの支配のもとにおかれているのです。確かに、主イエスはそのことをご自分で宣言されました。主イエスの大きさは昨日も、今日も、とこしえに変わることはありません。百人隊長が大きな信仰を持っていたのは、自分の考え、自分の経験、自分の限界に頼らずに、ただ、自分が従っている神様に無限の信頼を置いたからです。私たちの人生は、百人隊長のように、100%の信頼を置くときに、思い煩いから解放されるのです。自分の力をふりしぼりながら歯を食いしばる生活から、少し肩の力を抜いて、神様を信頼する恵みの中に生きる喜びと平安を経験することが必要ではないでしょうか。その時、私たちは、
主が百人隊長に言われたように、「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」という言葉を聞くのです。


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