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礼拝説教 2005-08-28『人間の力と神の力』(エレミヤ51章1-5節)

(イントロ)
BC586年に、バビロン軍によってエルサレムは滅びました。神はエレミヤを通してエルサレムの滅亡を預言していました。それは当時のイスラエルの民の心が神から離れていたからでした。イスラエルの民は神によって選ばれた特別な民でした。そして、神はアブラハムからイスラエル民族を造られた後も、歴史を通じて彼らを守り通されました。エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を、その苦しみから解放し、約束の地に導きいれてくださったのも神様でした。ところが、約束に地に住み着いて生活が始まると、彼らは神様のことを完全に忘れているわけではなく、いろいろな儀式や行事にも参加しているのですが、彼らは神様のこと以上に自分のこと、自分の生活のことを考えるようになっていました。彼らは自分たちの生活が守られるために偶像を拝むことさえしていたのです。そのようなイスラエルの民に向かって神様は語りかけられます。3章21~22節で「一つの声が裸の丘の上で聞こえる。イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。彼らは自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れたからだ。背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」イスラエルの神は、私たちと人格的な交わりを求めておられます。神様は、私たちの心が全て神に向くことを求めておられるのですが、イスラエルの民は、神ではないものを人生でもっとも大切なこととして考えていたようです。しかし、この姿勢は私たちにも問われています。私たちの人生でもっとも大切なことは神様だと私たちは心から宣言することができるでしょうか。いつの間にか、一番大切なことが自分の名誉であったり、この世での成功であったり、神以外のものを一番大切なものにしていないでしょうか。イスラエルの民は、神以外のものに心を向けることを大きな罪だと感じていませんでした。イスラエルの神を忘れてさえいなければ十分だと考えていたようです。しかし、神はかれらを背信の民と呼びました。神様は背信の民に向かって繰り返して「わたしのところへ帰れ」と招き続けられたのですが、彼らは、自分の道から離れず神のもとへ帰ろうとはしませんでした。
このように、神への背信を軽く考えていたイスラエルの民の目を覚ますために神様は当時急速に力をつけていたバビロンという国を用いて、彼らにさばきを与えることを決められたのです。預言者エレミヤは、活動を始めたときから神の差裁きが来るという警告のメッセージを語り続けていました。4章13〜14節で神様は言われました。「見よ。それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう、その馬は鷲よりも速い。ああ。私たちは荒らされる。エルサレムよ。救われるために、心を洗って悪を除け。いつまで、あなたの中には邪念が宿っているのか。」エレミヤはイスラエルの民に北から災いが来ることを神様から知らされていました。その災いから救われるためにイスラエルの民には何をすることが求められているでしょうか。ここでは、「エルサレムよ。救われるために心を洗って悪を除け。」といわれました。北から外国が攻めて来るとき、神様はイスラエルの民に対して、国の北側の防衛を強化しろとか、軍隊を訓練して強くしろなどと命令してはおられません。神様が彼らに命じられたことは「心を洗って悪を除け」という命令でした。イスラエルの民を敵から守るものは彼らの力、彼らの知恵ではありません。そうではなくて、彼らを守るものは自分自身が神の前に悔い改めることなのです。ただここで忘れてはならないことは、神様は、背信の民に向かって「救われるためには」と言っておられるということです。神にとっては絶望的だったイスラエルの民にも救いの道は残されていたのです。神様は、どんな人に対しても、このように救いの道を約束しておられます。私たちが、神の戒めを受け入れるならば、罪が赦され、罪ののろいから救われることを神様ご自身が約束してくださいました。このようにイスラエルの神はご自身の民を忍耐をもって愛し、導き、いましてくださったのですが、結局、彼らは神様の教えを、神様の命令を受け入れませんでした。そのために、エルサレムが滅亡するという大きな裁きを彼らは受け取らなければなりませんでした。
(1) エルサレム滅亡後
BC586年にバビロン軍によってエルサレムは滅びました。国のリーダーたちはみな鎖をつけられてバビロンに連れて行かれました。エルサレムに残ったのは、ぶどう畑を耕す貧しい農民ばかりでした。バビロンは、エルサレムに残った女や子供、それに貧しい人々を管理するためにゲダルヤという人物を総督というくらいにつけました。ゲダルヤは立派な人物だったように思われますが、彼はバビロンによって選ばれたリーダーでした。今のイラクと同じように、当時のユダにも、熱狂的な愛国主義者がいて、彼らはバビロンが選んだようなリーダに従うことを拒否したのです。そのような愛国主義者のリーダーはイシュマエルという男でした。彼は陰謀をたくらんでゲダルヤを殺しました。バビロンが選んだ総督ゲダルヤが暗殺されたというニュースはすぐにバビロンに届いたはずです。ユダに残っていた人々はパニックになりました。バビロンの王様が、ゲダルヤが殺されたことを怒って、ふたたびエルサレムを攻めてくると思ったのです。ゲダルヤを殺したイシュマエルはアモン人の国へ逃げましたが、国に残された民は、どうすればよいか途方にくれました。
それで、人々はエレミヤのところにやってきました。「すべての将校たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャの子イザヌヤ、および身分の低い者も高い者もみな、寄って来て、
預言者エレミヤに言った。「どうぞ、私たちの願いを聞いてください。私たちのため、この残った者みなのために、あなたの神、主に、祈ってください。ご覧のとおり、私たちは多くの者の中からごくわずかだけ残ったのです。あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」エレミヤの預言を受け入れず、またエレミヤの預言に反発した民たちも、自分の命が危険にさらされているので、彼に神の御心を示してくれるように、祈ってくれるように頼みに来たのです。彼らは、神の御心に従って生きれば安全であること、幸せに生活ができることを知っていたので、エレミヤに助けを求めました。彼らは自分の進むべき道がわからなかったので、神様の導きを求めました。エレミヤは神の御心を求めて10日間祈り続けました。そして10日目に神様からのメッセージがエレミヤに示されました。「もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて、引き抜かない。わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼をこわがるな。――主の御告げ。――わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、彼の手からあなたがたを救い出すからだ。」神様の御心は彼らがエルサレムにとどまることでした。バビロンによって破壊されたエルサレムに残れば神様がともにいて彼らを守ると約束してくださいました。神様の言葉、神様の導きはいつも神様の約束です。約束ということは、まだその状態が実現していないことを意味します。約束でもっとも大切なことは、約束をした人が信頼できるひとであるかどうかということです。約束は、まだ目には見えない状況を信じなければなりません。それは決して簡単なことではありませんが、約束する方が神様だから信じることができるのです。信じることは決して失望に終わらないのです。クリスチャンは神様の約束を信じて生きる人なのです。ところが、このときエレミヤに神の御心を求めに来た人は、神の御心がはっきりと示されたのに、それを信じませんでした。彼らはエレミヤが神の言葉を曲げていると感じたようです。私たちは、神様の御心を求めるとき、心はまったく白紙でなければなりません。神様が右に行けといえば右に行く覚悟ができていなければなりません。左に行けと言われれば、たとえ左に行くことにいろいろな困難があっても左に行かなければなりません。しかし、このときエレミヤの前に集まった人々は、神の御心を求めるといいながら、実際は、自分たちの考えがすでに決まっていたのです。そして、その自分の考えを神様に認めてもらいたいと思ったのです。ですから、神様の御心が自分たちの考えと違っていると、それを神の御心と信じることをせず、自分たちの考えに従ったのです。エルサレムに残っていることに危険を感じました。またバビロンが攻めてきて自分たちを殺すのではないかと恐れたのです。神様はバビロンを恐れるなと言っておられるのに、神様の言葉、約束を受け入れませんでした。そしてバビロンから遠いエジプトに逃げることを実行したのです。しかも、自分たちだけでなくエレミヤも一緒にエジプトに連れて行きました。
彼らはエジプトに逃げれば安全だと思っていました。しかし、神様の言葉は、エジプトに逃げれば滅ぼされるというものでした。(42章17節)「エジプトに行ってそこに寄留しようと決心した者たちはみな、そこで剣とききんと疫病で死に、わたしが彼らに下すわざわいをのがれて生き残る者はいない。』実際に、エジプトの王、パロ・ネコがユーフラテス川のカルケミシュという場所でバビロン軍と戦って大敗北を喫してしまうのです。エジプトに逃げたイスラエルの民はパロ・ネコが戦争に出発するとき、エジプトがバビロンを滅ぼすと思っていましたが、思いがけずエジプトは戦いに負けました。人間を頼りにするとき、人間の力を頼りにするとき、私たちは、裏切られることが多いのです。預言者イザヤは言いました。「鼻で息をする人間を頼りにするな」と言いました。聖書の神以外のものを頼りにする人は大きな間違いを犯しています。どのような人間も、どのような権力も、財力も、知恵も経験も、一度、神様の息が吹くと、それらは熱風を受けた花のように、一瞬にして死んでしまいます。滅んでしまいます。
しかし、神様はイスラエルの民に対してどこまでも、最初の愛を貫かれます。46章7節で、神様が言われました。「わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。イスラエルよ。おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、おびえさせる者はだれもいない。」神様は、イスラエルの民に回復を与えることを約束しておられます。神様は遠くからでも私たちを救うことのできる方です。私たちの安心は、強い軍隊がいるから与えられるのではありません。神様が約束しておられるように、神様がどんなときも私たちと一緒にいてくださるから安心なのです。エジプトに信頼した人々がエジプトに失望したように、人間を頼りにして生きる人は人間に失望します。しかし、神様を信頼する人は、水のほとりに植えられた木のように、自分にはない力が与えられて生きるのです。水のほとりに植えられた木はどんなに弱い木でも、根を伸ばせば豊かな水を吸い上げることができるので、豊かに成長するのです。私たちがどんなに弱い人間であっても、神のそばに生きるなら、神からの力によって成長するのです。
今日読んだ、エレミヤ書の51章はバビロンに関する預言の言葉です。エルサレムを滅ぼしたバビロン、バビロンの王ネブカデネザルは本当に強い国であり、強い王様でした。だれもこのような強い国を滅ぼすことはできないように思えました。しかし、人間の力はどんなに強くても、いつかは滅びのときが来るのです。バビロン帝国の支配は、意外と早く終わりが来ます。バビロンの周辺の国が手を組んでバビロンを襲いました。人間の力はどんなに強くても、いつかは弱るときが来ます。力がなくなるときが来ます。しかし、神差を信頼し、神とともに生きる人は、決して疲れることなく、わしのように翼を広げてのぼることができると聖書に約束されています。エレミヤが最後どのように死んだのかは聖書に何も書かれていないのでわかりません。エジプトでどのような生活をしていたのか、わかりません。バビロンの王様からはバビロンに来れば豊かな生活を保証するといわれていたのに、エレミヤはエルサレムに残ったために、結局はエジプトで、この世の人生を終わることになりました。エレミヤがどんな死を迎えたかはわかりません。伝説では、エレミヤはエジプトで石打の刑を受けて死んだといわれています。あるいは、秘書バルクに見守られて安らかに最後を迎えてかも知れません。しかし、いずれにせよ、彼が最後に目を閉じるときに彼が見ていたのは、この世の姿ではありません。エレミヤは地上の人生を走り終えると天に移されて神様とともに生きることを知っていたはずです。彼は地上の生涯は恵まれず、苦しみと悲しみの連続でした。しかし、彼は表面的にどのような死に方をしたにせよ、彼はしっかりと天国の約束を握って目を閉じたことでしょう。そして、神様からは「よくやった、良い忠実なしもべよ。」とお褒めの言葉をもらったことでしょう。
私たちも、エレミヤと同じように、この世の働きを終えると、神様のおらえるところへ移されます。人間の世界は絶えず変化しています。いつまでも続くように思えるものも、必ず終わりがあります。しかし、クリスチャンの人生に終わりはありません。この世の人生が終わると別の人生が待っているのです。私たちも、エレミヤのように、神だけを信頼して、たとえ地上の人生が苦しいことがあるとしても、神様の約束を信じて、特に永遠に神様とともに生きるものとされるという約束をしっかり握り締めて歩み続けたいと思います。
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