2005礼拝めっせーじ

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メッセージ2005


礼拝説教 2005-09-11『罪びとを招く主』(マタイ9:9―13)

(イントロ)
 マタイの福音書のメッセージには神が悔い改める罪人を赦されるという点が強調されているように思います。イエスの系図には4人の問題を持った女性が含まれていますが、ルツとラハブは外国人ですが、特にラハブは売春婦でした。ダビデは神に選ばれた王でしたが、自分の部下の妻と姦淫を犯し、それを隠すために部下を殺しました。
 主イエスが来られるための準備をするために現れた預言者、バプテスマのヨハネは、約束の救い主が来られる前に罪の悔い改めをして準備をせよと当時のイスラエルの民に訴えました。そして人々が罪を告白した時に、神様がその罪を清めてくださることのシンボルとして洗礼を人々に授けていたのです。主イエスご自身も、神としての働きを始められたときに最初に言われたメッセージは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言うメッセージでした。
 人間が罪を悔い改めるのはなぜでしょうか。自己中心という罪を持って生まれる人間は完全に聖である神様に近づくことができません。しかし、私たちのいのちを造り、私たちを愛しておられる神様が、私たちの罪を赦すことを願われたのです。神様が私たちの罪を赦し、清くし、救うためには、私たちはその罪を悔い改めなければなりません。人は自分が病気であることを認めなければ、治療を受けようとは思いません。ですから、神を信じる信仰への出発点は、自分の罪を認めるということです。言い換えると、自分の罪を認めない人は神様から赦されなければならないとは考えないので、信仰に入ることはできません。そのため、自分を正しいと思い込み悔い改めを拒否する人は神と共に生きるための救いに入ることができないのです。
 マタイの福音書の9章9節から17節の中心テーマはここにあります。主イエスの13節の言葉です。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」主イエスのこの言葉には、主イエスの働きの目的、なぜ、神がわざわざ私たちと同じ人間の姿を取られたのか、その理由が示されています。神である主イエスが神の栄光の座を離れて、低い者になってこの世に来られた目的は罪人をご自分のところに招くためでした。ですから、13節の主イエスの言葉は聖書に書かれているイエスの言葉の中でも最も大切なものです。罪を持ったままの人間は滅びに向かって進んでいます。しかし、そのような人々を滅びの人生から永遠のいのちの人生へと救い出すために主イエスがこの世に来られました。もし、主イエスが正しい人を救うためにこの世に来られたのであれば、主イエスが人となったことはまったく無意味なものになります。正しい人は救われる必要がないからです。しかし、もう一つ大切なことは、イエス・キリストの十字架の働きによって神からの救いをもらった人を除いて、神の目には正しい人は一人もいないということです。ローマ人への手紙3章には次のように書かれています。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」神の前に正しい人はひとりもいないのです。イエスの時代、律法学者やパリサイ人と呼ばれた人々は自分が正しい人間だと思い込んでいたために、自分が救われる必要をまったく感じていませんでした。したがって、そのような人には救いの希望、永遠のいのちの希望がないのです。先週、私たちは、中風で動けない人が友達によって主イエスのところへ運ばれて来ました。そして主は、まずその人の罪をお赦しになりました。これを見ていた人々は、みな心の中で考えました。「神様はどこまで人間をお赦しになるのだろうか?」「誰の罪が赦されて、誰の罪がゆるされないのだろうか。」9章9節から17節のところでは、そのような人々の疑問に答えるできごとが書かれています。
(1) 取税人マタイの救い
 主イエスは、中風の人を癒した後、カペナウムの町を離れました。すると、その道沿いにあった収税所に、この福音書を書いたマタイが座っていました。彼は取税人だったのです。イスラエルの民から税金を集める仕事ですが、彼らが納めていた税金は、当時イスラエルを支配していたローマに支払うためのものでした。彼らは、ローマに雇われていたので、彼らの周りにはいつもローマの兵隊がいて彼らを守っていました。彼らはいろいろな口実を作っては人々に税金を決まった額以上に払わせていました。また役人から賄賂をもらうことも多く、彼らはどんどん金持ちになって行きました。そのことを知っていたイスラエルの人々は、ローマの役人や軍人以上に取税人を嫌い、また軽蔑していました。彼らは会堂に入ることが許されず、同国人であるユダヤ人と交わることもありませんでした。彼らは宗教的には汚れた動物と同じようにみなされていました。ですから、マタイは、近所に住むすべての人々から嫌われ、軽蔑されていた男です。しかしながら、そんな誰もが嫌うようなマタイに、主イエスは「私について来なさい」と言われたのです。主イエスは、そのような社会から完全にのけ者にされているような人にも赦しを与えるお方です。
 主イエスがマタイに「わたしについて来なさい」と言われたときに、彼がなんと答えたか、それは聖書には書かれていません。聖書には「彼は立ち上がって従った」とだけ書かれています。マタイは、自分が今のままではだめだということをはっきりと分かっていたと思います。お金はあっても、人々からは憎まれて生きる人生。貧しく弱い人々を苦しめて、外国人であるローマのために働いている自分。彼は、イエスが権威に満ちた説教をされること、さまざまな奇跡の業を行われることをうわさで聞いていたに違いありません。彼は、中風の男のように、あるいは百人隊長のように自分から主イエスのところへは行きませんでしたが、マタイは主イエスなら自分のような人間でも受け入れてくださることを期待していたと思います。当時のユダヤ教の教え、当時のユダヤ教指導者たちからは、マタイは絶対に受け入れてもらえない人間だったからです。そんな彼に向かって、主イエスが「わたしについて来なさい」と言われたので、彼は、喜びと驚きで、すぐに立ち上がり、自分の仕事を捨てて主イエスについて行きました。ルカの福音書を見ると、マタイは「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」と書かれています。彼は、主イエスから招かれたときに、自分の生活、自分の財産の全てを捨てました。彼はローマ政府の職員として働いていましたから、一度、今の仕事をやめてしまうと2度とその仕事に戻ることはできませんでした。彼は、イエスに従うということにどれほどの犠牲が伴うかを知っていましたが、彼は何のためらいもなく立ち上がって主イエスについて行ったのです。おそらく主イエスの12人の弟子の中で彼は一番大きな犠牲を払ったことでしょう。しかし、彼は、自分が残していったもののことなどぜんぜん惜しいと思っていません。主イエスと出会って、声をかけられたことで彼は驚きと喜びでいっぱいだったからです。
 
(2)パリサイ人たちの態度
彼は主イエスとの出会いを友達にも知ってもらいたいと思い、自分の家に仕事仲間の取税人たちを招きました。彼も、マタイと同様に社会から除け者にされていた人々です。また、大勢の罪人も集まってきました。彼らは泥棒、人殺し、売春婦など社会の邪魔者たちでした。ところが、この様子を見たパリサイ人たちは怒りました。取税人や罪人たちがイエスと交わりを持ったことではなく、主イエスが彼らと交わりを持ったことが彼らには赦せなかったのです。彼らは、自分たちは信仰的な生活をし、清く正しい生活をしているので、自分の中に罪や欠点を見ることができませんでした。当然のことながら、彼らは宗教的にも道徳的にも腐りきったような取税人や罪人たちと交わることなど問題外でした。パリサイ人は自分たちには神の赦しが必要だとは思っていませんでした。また、彼らは取税人や罪人たちには神の赦しを受ける資格はないと考えていました。彼らは宗教家でしたが、彼らの働きは人々を助けることではなく人々を裁くことでした。彼らの働きは人々を回復させることではなく罪に定めることでした。そんなパリサイ人が、自分を正しいとするものを糾弾し、罪深い人間に赦しを与える主イエスと対立するのは当然のことでした。
(3)イエスの教え
取税人や罪人と交わることを批判している律法学者やパリサイ人たちに向かって主イエスは言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」イエスはご自身を医者にたとえておられます。医者は病人の治療をします。罪を赦す権威を与えられた救い主は当然赦しを必要としている罪人のところへ行きます。医者の中に、健康な人とだけ関わって病人のところへは行こうとしないような医者がいるでしょうか。主はパリサイ人たちに言っておられることは次のようなことです。「もしあなたが霊的な医者であるとするなら、あなたは、人の病気を指摘するだけで、その人の病気を治そうとはしない、そんな医者だ。」彼らは、罪人の罪を指摘するだけで、その人を治そうとしないのです。薬を飲まず、治療を受けなかったら死んでいく人をほったらかしにする医者がいるでしょうか。しかし、彼らはそのような態度だったのです。
主は、また、旧約聖書から引用して次のように言われました。「『わたしは、あわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」これはホセア書からの引用の言葉です。ここで言われていることは、神様は、神を信じる人々がいけにえを捧げるという儀式を守ることを願っているのではなく、あわれみを持つことだということです。パリサイ人や律法学者は、お祈りや断食や献金をきちんと行っていましたが、その心には罪人に対する哀れみはありませんでした。あわれむ心がなかったら、私たちが神様にどんなささげものをしても、神様はそれを喜ばれないのです。どんなに信仰深い生活をしていても、あわれみを持たない人は神に喜ばれないのです。
そして結論として主が言われたことは「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」という言葉でした。主は、喜んで取税人や罪人と交わられました。それは彼らには救い主が必要だったからです。ルカの福音書では「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」と書かれています。(5:32)この言葉から分かるように、主イエス・キリストが招いておられるのは罪人ですが、自分の罪を認めて悔い改めようとしている罪人です。イエスは100匹の羊の中で道に迷った1匹の羊のたとえ話の最後にこういわれました。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」主は、罪人の悔い改めを心から願っておられ、喜んで赦しをあたえる方です。そのために、すすんで罪人とともに時間を過ごし、ともに食事をされました。しかしパリサイ人たちは自分を正しい人間だと思い込み、赦しの必要も感じていませんでした。ですから、そのような彼らを主は招くことができないのです。自分は正しい人間だからキリストを信じる必要はないといっている人々には主イエスが与える罪の赦しも永遠のいのちも受けることができません。神の国、天国は、霊的に病気の状態の中で癒されたいと願っている人々のために存在するのです。霊的に腐敗しているが清められたいと願っている人々のためにあるのです。どんなに罪に穢れている人であっても、赦されたい清められたいと願っているなら、天国はその人のためにあるのです。その人が救われるために、主イエスは天の栄光を捨てて、人の姿を取ってこの世に来てくださったのです。


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