|
礼拝説教 2005-09-25『新しい教えに生きる』(マタイ9:14―17)

(イントロ)
主イエス・キリストが神の教えを語り、多くの奇跡の業を行われるにつれて、主イエスとユダヤ教の指導者であったパリサイ人や律法学者や祭司たちと対立するようになりました。マタイの福音書でも9章でその対立ははっきりしてきました。最初に記されているのは、中風で体が麻痺している人が主イエスのところに連れてこられたときに、主は、パリサイ人や律法学者の前で、病気を癒す前にその人の罪を赦されました。その後で体の不自由な人を癒されましたが、このことを通して主はご自分が神であることを宣言されたのです。そして、体の癒しよりも罪の赦しのほうが大切であることを人々に示されました。この出来事に続いて、主イエスは取税人マタイを弟子になるように招かれました。当時、取税人は不正を行い、人々を苦しめることによって、自分たちだけが裕福になっていたので、ユダヤ人の中でもっとも憎まれていた人々でした。主イエスはマタイを弟子に召しただけではなく、マタイの家で彼の仲間の取税人たちと一緒に食事をされました。その様子を見たパリサイ人は驚きと怒りを感じました。そのとき、主イエスが彼らに言われた言葉は「医者が必要なのは健康な人ではなく病人です。私は正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです。」という言葉でした。
(1) バプテスマのヨハネの弟子たちの質問
主イエスとパリサイ人や律法学者たちとの対立が激しくなっていたときに、主イエスのもとに、バプテスマのヨハネの弟子たちがやってきました。そのころ、バプテスマのヨハネは牢屋に入れられていました。ヨハネの弟子たちの多くは主イエスの弟子になっていましたが、主イエスの弟子にはならなかった弟子たちはユダヤ教の伝統や儀式を守っていました。彼らはパリサイ人とは異なり、主イエスに質問をしに来たときも、陰謀を働く思いはまったくありませんでした。ただ、彼らは主イエスの教えや働きが、それまでのユダヤ教の伝統から外れているように見えたために疑問を感じていたのです。この時に、彼らが主イエスに尋ねたのは「断食」についてでした。「私たちやパリサイ人たちはよく断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか?」旧約聖書が断食を規定しているのは1回だけです。1年に1回ユダヤ教では大祭司が民の罪の赦しを神に願い求める日がありました。その日は「贖罪の日、ヨム・キップール」と呼ばれていました。レビ記16章の29節と31節に新改訳では「身を戒める」新共同訳では「苦行する」と訳されているヘブル語の言葉には「食事を控える」という意味が含まれると考えられていました。ところが、ユダヤ教の伝統は毎週2回の断食をすることを決まりとしていました。エルサレムの神殿で主イエスの前で祈りをささげたパリサイ人も「私は週に2回の断食を守っています」と祈っていました。イエスの時代の正統的ユダヤ教徒は、とくに3つのことを行うことを心がけていました。それらは、貧しい人々に施しをすること、決められた祈りをささげること、そして断食をすることでした。律法学者もパリサイ人もこの3つの務めを忠実の行うことをもっとも大切なこととしていましたが、それだけではなく、彼らはできるだけ目立つように、人々に見えるように行っていました。彼らは貧しい人に施しをするときは会堂でも街角でもラッパを吹き鳴らしました。また、祈りをささげるときは人々に見えるように、会堂や街角に立って大きな声で祈りました。また、断食をしているときは、いかにも断食しているかのようにわざと苦しそうな顔をしていました。かれらにとって、これらの勤めは神様の前で悔い改めること、謙遜になることを意味しているのではありません。自分たちがいかに信仰深いかを人々に見せるために行っていました。だからこそ、主イエスは彼らに非常に厳しい言葉を言われたのです。パリサイ人について主イエスは「表面はきれいに見えても心の中は死んでいる」と言われました。このことは私たちへの警告でもあると思います。私たちの礼拝も祈りも聖書を読むことも、かたちにこだわったり、人の目を気にしたりして行うなら、パリサイ人と何も変わらないからです。神様が私たちに求めておられるのは、その形式的な儀式や行いではありません。旧約聖書の時代も神様が私たちに求めておられるのは、儀式を行うことやいけにえをささげることではありませんでした。ミカ書の6章8節には「人よ。何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神とともに歩むこと、これである。」
私たちも、形式的な信仰に陥らないように、いつも私たちの心が神の前にへりくだって、神の教えによろこんで従う心かどうかを点検しなければなりません。
(2) 質問に対する主イエスの答え
主イエスはヨハネの弟子たちに次のように答えられました。「花婿に付き添う友達は、花婿が一緒にいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が奪い取られる時が来ます。そのときには断食します。」当時、結婚式は、普通一週間続きました。そして花婿は、婚礼の責任者として自分の一番親しい友達を選びました。彼らにとって婚礼は悲しみの時ではなく喜びの時です。主イエスが言われたいことは、主がこの世におられる間は、弟子たちにとっては喜びのときであり悲しんだり断食をしたりすることはふさわしくないということです。彼らの断食は人間が作ったユダヤ教の伝統でしたが、神が人の間に住まわれて神の働きをしておられるときには断食はふさわしくなかったのです。しかし、主が言われたように、花婿が取り去られるときが来ます。もちろん、主イエスは十字架のことを言っておられるのです。主イエスは突然、弟子たちや主にしたがっていた人々から取り去れるのです。そのときは悲しみの時であり、彼らは断食をするのです。主イエスとともに生きるときは喜びのときです。喜ぶべきときに悲しむのは不釣合いです。断食は、信者が心を砕かれて悲しみを感じる心によって、自然に始まるべきものです。時間を決めて行う断食は霊的な意味が浅い儀式に過ぎないのです。私たちが神様の前におこなうすべてのことは、心か始まらなければなりません。
(3) 主イエスの教え
バプテスマのヨハネの弟子たちは断食について質問をしたのですが、実は、この質問にはもっと重要な問題が含まれているのです。バプテスマのヨハネは自分の弟子たちに主イエスに従うように教えました。多くの弟子たちはイエスに従って行ったのですが、彼らは主イエスに従いませんでした。そしてバプテスマのヨハネが牢屋へ入れられてしまって、信仰の基盤を見失っていました。そして、主イエスの教えや働きが伝統的なユダヤ教の枠を超えていることに気づいていました。ユダヤ教は伝統を重んじ、儀式や祭り、宗教的な行いを重要視していましたが、主イエスは、外側の行いではなく心を問題にしておられたからです。主イエスは、バプテスマのヨハネの弟子たちにふたつのたとえを用いて、ご自分の教えや働きの意味について説明をされました。
「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。」当時の衣服はほとんどがウールか亜麻布が使われていました。ウールも亜麻布も洗うとかなり縮みます。もし新しい洗ったことのないウールか亜麻布の布切れを古い着物の継ぎ切れに使って、その着物を最初に洗ったときに、継ぎ切れに使われた新しい布切れは縮むので、古い着物を引っ張り、着物は破れてしまうのです。また主は言われました。「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は避けて、ぶどう酒は流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。」当時、ぶどう酒は動物の皮で作った袋に入れられることが一般的でした。動物の皮を首と足の部分で切って裏返しにして足の部分は縫い付けます。そして首の部分の穴が注ぎ口として使われました。古い皮袋は乾燥して、皮がもろくなっています。そこへ新しいぶどう酒を入れると、新しいぶどう酒はまだ発酵が終わっていないので、皮袋には膨張する圧力がかかるのです。新しい皮袋は弾力性がありますが、古く乾燥した袋はもろくなっているので、その圧力に耐え切れず破れてしまうのです。
パリサイ人や律法学者たちが守っていたユダヤ教の伝統、律法的信仰、外側の行いを重視する信仰は、主イエスの働きやメッセージとつなぎ合わせることもできないし、また、それを中に入れることもできないものであることを主イエスは述べておられるのです。だからこそ、彼らが主イエスに対して行ったことは、主イエスを殺そうとすることでした。ただ、ここで注意しなければならないことは、主イエスは旧約聖書の律法を廃棄するためにこの世にこられたのではありません。主イエスは、旧約聖書の教えが不十分であり、また間違いがあるから、それを廃棄するために来たのではないとマタイの5章17節ではっきりと述べておられます。ところが、パリサイ人や律法学者から見ると、主イエスのメッセージや働きは旧約聖書を無視しているように見えたのです。律法が私たちに要求することは私たちが神様の前に聖なるものとして生きることです。この律法の権威は永遠に続くのです。聖書の律法とキリストの恵みは完全に両立するものなのです。古い皮袋とは、旧約聖書の教えのことを言っているのではなく、その教えに人間的に付け加えられたユダヤ教の伝統のことでした。その伝統が聖書の真理に反することもあったのでした。
私たちが主イエスを救い主と信じて生きるときに、主は私たちのうちに新しいぶどう酒を満たしてくださいます。新しいぶどう酒は発酵が終わっていないので膨張します。主イエスが私たちのうちに与えてくださる新しいいのちは、私たちの内側で大きくなり、古いもの、不必要なものを外へと押し出すのです。私たちの生活のすべての部分がキリストの子供としてふさわしい者となるために、私たちはキリストの姿に似せられていくのです。古いものは過ぎ去ってすべてが新しくなりました。私たちは、本来、神のかたちに似せて造られていたのですが、アダムとエバの堕落のために、私たちは罪の傷をこの身に帯びていました。それを神様が回復してくださるのです。私たちの祈りは、「主よ。どうぞ、私のうちにある古い罪、古いもの、不必要なもの、神に従うことを妨げるものを取り去ってください。そしてあたら意あなたの命で満たしてください」と祈らなければなりません。古いものが押し出されれば押し出されるほどに、私たちの内側は新しいぶどう酒を入れる場所が生まれるのです。
ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。)
|