2005礼拝めっせーじ

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メッセージ2005


礼拝説教 2005-10-02『死に打ち勝つ主』(マタイ9:18―26)

(イントロ)
 旧約聖書の一番中心となるテーマは、神の決められた時に「メシヤ」と呼ばれる救い主が来られるということでした。ですから、旧約聖書には「メシヤ」に関する預言が数多く書かれています。例えばイザヤ書35章5−6節には「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」と書かれています。主イエスが、神の立場を捨てて私たちと同じ姿を取ってこの世に来られたとき、主はメシヤの働きをされました。ここにイザヤ書に書かれているように、主イエスは、盲人の目を開かれ、足がなえた人は床から起き上がって歩き出しました。主イエスの働きは、希望のない荒野に、いのちのない荒野に喜びや癒しを与えるものでした。主イエスは、苦しんでいる人、悲しんでいる人、悩みの中にある人々には特別な愛と慈しみを注がれました。主イエスは、神の子でしたが、肉体的には私たちとまったく同じ姿を取られました。ですから、私たちと同じように空腹を感じ、疲れを覚えました。主イエスのところには、いつも大勢の病人が連れてこられましたが、どんなに疲れていても、主イエスは一人一人のために祈り、病気を癒し、悪霊を追い出されたのです。しかし、主イエスの働きにはもう一つの意味がありました。それは、奇跡の業を行うことを通して、主イエスはご自分が旧約聖書に預言されているメシヤ・救い主であることを証明されたのです。今日の箇所では、主イエスは2つの奇跡を行われました。二人の女性が、主イエスの働きを受けました。一人は裕福な家庭の娘で、もう一人は長年病気を患っている不幸な女性です。二人の生活環境はまったく違っていますが、二人とも大きな助けを必要としていました。そして主イエスは二人に助けを与えられました。私たちの主は救い主であり、助けぬ詩です。私たちが、この地上でどんな状況に置かれても、私たちには常に助け主となってくださる方がいることを忘れてはなりません。
(1) 主イエスに助けを求めよう
 主イエスは、パリサイ派の人々やバプテスマのヨハネの弟子たちと信仰の話をしていました。主イエスは、彼らの目が開かれて自分が救い主であることが分かるようにと彼らと話をしておられたのです。そこに、ひとりの会堂管理者がやってきました。ここにはその人の名前が書かれていませんが、マルコやルカの福音書を見ると、その人の名前は「ヤイロ」であることが分かります。また、日本語ではマタイもマルコもルカもみな「会堂管理者」なっていますが、ギリシャ語ではマタイは「管理者」という言葉が使われており、マルコとルカでは「会堂代表役員」のような言葉が使われています。ですから、ヤイロは、カペナウムの町では最も地位の高いユダヤ教指導者だったのです。もちろん、ユダヤ教の指導者ですから、ヤイロもパリサイ派に属する人だったはずです。マタイの9章を読めば分かるように、この時点で、すでに、ユダヤ教指導者たちと主イエスの間の関係は日ごとに悪くなっていました。それはユダヤ教のリーダーたちが主イエスを、神でもないのに自分を神だと思い込んでいる危険人物だと見なしていたからです。ですから、カペナウムで一番地位の高い指導者が主イエスのところへ助けを求めて行くことは、ヤイロにとって、非常に難しいことだったはずです。仲間の目を気にしていたら主イエスのところへ行くことはできなかったでしょう。しかし、自分の娘、ルカの福音書には12歳と書かれていますが、自分の娘が生きるか死ぬかというときに、ヤイロには自分の力では何もすることができませんでした。彼は主イエスの働きについて人々がうわさしているのを聞いていたのでしょう。彼には、ほかに助けを求めるところがありませんでした。ユダヤ教の仲間から何と言われるかということよりも、娘のいのちが助かるほうが彼には大切なことでした。ですから、彼はこのように昼間に主イエスのところに来て助けを求めたのです。私たちは、日ごろ、主イエスを信じる信仰を持っていながら、必要以上に周りの人の目を気にして生きていないでしょうか。大切なことはいのちや死という人間にとって一番大切な問題に対しては、ほかの人は頼りにならないということです。そのような状況の時には、本当に頼りになり、助けになるのは神以外に誰一人いないのです。彼は自分の立場や身分のことを忘れて主イエスのところへ行きました。主イエスのところへ出て行ったからこそ解決の道が開かれたのです。
 また、ヤイロは主イエスを信頼していました。彼がどのように主イエスのことを聞き、イエスを知ったのかは分かりませんが、すでに神様がヤイロの心に働いておられたのでしょう。彼は主イエスなら自分が要求していることに応える力を持っていることを確信していたようです。ですから、彼は主イエスに「娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」と言ったのです。そこには疑いやためらいはありません。しかも、このときまで、主イエスは大勢の病人を癒してはいましたが、まだ、死人を生き返らせるという奇跡は行っておられないのです。主イエスは、ヤイロの信仰を見られました。主イエスは、パリサイ派の人々やバプテスマのヨハネの弟子たちとの話を途中でやめて、ヤイロと一緒に彼の家に向かいました。主は、彼のために、大切な論争を途中でやめました。その日も、主イエスのところには大勢の病人が連れて来られていたことでしょう。しかし、 主はヤイロの娘のためにその日の時間を捧げられたのです。主イエスは大勢の人々の祈りに答えてくださる方ですが、同時に、一人の人間の小さな祈りにも、答えてくださる方です。多くの働きを中断してまでも、一人の人の祈りに答えてくださる方なのです。
(2) 主イエスに触った人
 主イエスと弟子たちがヤイロと一緒にヤイロの家に向かったとき、大勢の群集も一緒について行きました。大勢の人々がイエスを取り囲みながらヤイロの家に向かっていたのですが、その群集の中に12年間も出血が止まらない病気に苦しんでいた一人の女性が紛れ込んでいました。主イエスは、一人の12歳の娘を助けるためにヤイロの家に向かっていたのですが、その途中でもう一人の女性の必要にも目を向けられたのです。この女性もヤイロと同じように、主イエス以外に自分を助けてくれる人はいないと確信していました。彼女は12年もの間、体の痛みを経験しただけではありません。旧約聖書では、出血が止まらない女性は宗教的な意味で汚れた人と見なされていました。彼女が寝る寝床も、座るいすも、彼女が触るものはみな汚れました。また、彼女に触った人も汚れた人と見なされました。そのような女性は会堂に入ることできませんでした。人と交わることもできません。彼女は家族からも離れて、孤独と悲しみだけの12年間を過ごしていたのです。さらに、彼女はいろいろな医者にだまされて財産も使い果たしていました。しかし、彼女から私たちが見習うべきことは、どんな状況になってもあきらめないということです。彼女は12年間の体の痛みに苦しんでいました。大勢の医者からだまされました。このような状況だと、病気が治ることをあきらめてしまう人が多いのではないでしょうか。そして、自分の不幸を嘆いて、神をのろって、やけっぱちな生活をしないでしょうか。彼女は治りたいという素直な願いを決して失いませんでした。私たちの信仰生活で、私たちは、何度も祈っても、自分の願っているような結果が起こらないと、神を憎んで、神を信じることをやめてしまわないでしょうか。私たちは決してあきらめるべきではありません。主イエスのところへ行けば解決があるのです。鼻で息をするような人間には頼ることができなくても、主イエスのところへ行けば主が助けてくださるのです。
 彼女はおそらくショールのようなもので顔を隠して、誰にも気づかれないようにして主イエスの後を追いかけました。彼女は心の中で思っていました。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」そして、イエスの後ろからそっと近づいて主イエスの着物のすそについていたフサ飾りのようなものに触りました。彼女が主イエスの衣に触った瞬間、彼女は自分の体の変化をはっきりと感じました。彼女は誰にも気づかれないでそっと帰りたかったのですが、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われました。主イエスは全知全能ですから、誰が触ったかは知っておられたはずですが、あえてそのように言われました。弟子たちは主イエスに言いました。「こんなに大勢の人がいるのですから、誰が触ったかと言われても、大勢の人が触っています。」マルコの福音書によると主は、ご自身の体から力が抜けたことを感じられたのです。それまでどんなに大勢の人が触っても力が抜けることはなかったのに、彼女が触ったときに初めて力が抜けました。彼女がイエスのところに近づいたのは、死に物狂いで近づいて来たのです。「谷川の流れを慕う鹿のように」と私たちは賛美しますが、このときの鹿はのどが渇いて死にそうで、必死になって川へ降りていく鹿の姿を描いています。このときの彼女は、まさに、この鹿のように必死になってイエスに助けを求める信仰の手を伸ばしたのです。彼女は必死でした。私たちは、このように日曜日に教会に集まって神様を礼拝しています。神様に賛美をささげます。祈りや献金を捧げます。しかし、私たちはこの女性のような真剣さを持って神様の前に出ているでしょうか。それとも、イエスの近くにいた群衆のようにただ近くにいるだけで、信仰の手を伸ばさないでいるでしょうか。信仰の手をイエスに伸ばした人だけがイエスの力を体験することができるのです。
 主イエスは、立ち止まって周りをじっと見回しておられました。女性は見つからずに癒しだけを受けてそっと帰ろうと思いましたが、主がそれをお許しにならなかったのです。女性は隠れていることができないと思って、主イエスの前に出ました。人々の前に出ました。彼女は主イエスに怒られると思いました。彼女がイエスの衣にさわったことで衣が穢れたからです。マルコの福音書によると「女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。」(5:33)とあります。今まで誰も彼女の話を聞いてくれる人はいませんでした。彼女はどんなにつらくても苦しくても、全部自分の胸にしまいこんでいたのです。しかし、彼女は、イエスにしかられることを覚悟で、これまでの自分の生活、自分の気持ちを全部主イエスの前で吐き出しました。彼女は、主イエスにしかられると思ったのに、主イエスの口からでた言葉は「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」という言葉でした。これは「私の衣があなたを救ったのではない。あなたの信仰があなたを救ったのだ。あなたは、もう私の家族の一員になったのだから安心して行きなさい。」という意味でした。彼女は、体の癒しだけでなく、魂も救われて、これまでに経験したことのない心の平安を感じて、その日から新しい生活を始めたのでした。彼女がイエスの衣に触って癒されたときに、そのまま家に帰っていたら、彼女の生活は大きく変わってはいなかったでしょう。イエスに言われて人の前に出て、イエスと大勢の人の前で自分の気持ちを全部出したからこそ、イエスからやさしい言葉を受け、そしてイエスによって彼女は今まで経験したことのない喜びと希望を感じたのです。それまでの苦しみや悲しみを全部忘れ他彼女は、この時から新しい生活を始めることになりました。
(3) 主イエスは全能なる神である
 12年間の長血で苦しんでいた女性がイエスの前で自分の過去を洗いざらい話している間、ヤイロはどんな思いでいたでしょうか。自分の娘が死んで、何とかイエスに娘を生き返らせてもらいたいと思っているのに、主は、一人の貧しい哀れな女性のために時間をさいて彼女の話を聞いていました。ヤイロは人間的に考えて、少しでも家に帰る時間が遅くなると娘は助からないのではないかという恐れを感じていたに違いありません。しかし、神の時間と人間の時間は違うのです。主イエスはヤイロの娘のことなど忘れているかのように見えましたが、病気が癒された女性が立ち去って行くと、再びヤイロの家に向かいました。当時の風習で、葬式の時には、人々の悲しみを盛り上げるために、笛を吹く人を呼んで悲しいメロディーをひいてもらったり、泣くのが専門の女性を雇ったりしていたようです。ヤイロはカペナウムで一番地位の高いユダヤ教の指導者でしたから、多くの人が娘の死の悲しみを盛り上げるために雇われていたと思われます。しかし、ヤイロの家に着いたときに主イエスは彼らに向かって「出て行きなさい」と命令しておられます。そして言われました。「その子は死んだのではない。眠っているのです。」それを聞いた人々はイエスをあざわらいました。しかし、主は復活の主です。私たちの主イエスは十字架と復活を通して罪と死に対する勝利を宣言された方です。主イエスが言われているように、クリスチャンにとっては、死は眠りに過ぎないのです。病気を支配される主イエスは死に対しても支配する力を持っておられる方です。私たちは、肉体の死を迎えると、眠りに入ります。しかし、時が来れば、私たちはラッパの音と共に目を覚ますのです。そして、栄光の体を神様からいただくのです。
 主イエスはヤイロの娘の部屋に入り少女の手を取って「娘よ、おきなさい」と言われると、娘は起き上がりました。イエスは、私たちのいのちも死をも支配しておられる方です。彼女はこのとき、生き返りましたが、やがては肉体の死を迎えるときが来ます。しかし、たとえ、私たちの肉体が朽ち果てても、私たちは死ぬのではなく眠りに入るのです。その眠りの中で、私たちは神様の守りの中に入れられているのです。やがて私たちは目を覚まし、新しい体を受け取ります。今の世界に戻ることはできませんが、新しい世界に向かってよみがえるのです。そして永遠の世界で神と共に生きる者となるのです。ですから、クリスチャンは病気も、死も恐れる必要はありません。D.L.ムーディーという有名な伝道者が、まだ若いときに、葬式のメッセージをするように頼まれました。彼はメッセージのために聖書を読み始めました。主イエスは葬式でどのようなメッセージを語っているだろうかと調べ始めたのです。そのときに分かったことは、主イエスは一度も葬式のメッセージを語っていないということでした。逆に、主イエスは、出席した葬儀で必ず、死んだ人を生き返らせて、葬儀を混乱に陥れていたということでした。死んだ人が主イエスの声を聞くとたちまち生き返ったのです。私たちも、肉体が死ぬと眠りに入りますが、いつか必ず主イエスの声を聞くときが来ます。そして、そのとき、私たちはすぐに目を覚まして神と顔と顔を合わせて生きるようになるのです。この希望をしっかり握り締めて歩み続けたいものです。


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