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礼拝説教 2005-10-09『目を開かれる主』(マタイ9章27-31節)

(1) 目の見えない二人
主イエスがカペナウムの町の会堂責任者ヤイロの娘を死から生き返らせるという大きな奇跡を行ったのち、主はヤイロの家を出て別の場所へ向かわれました。すると、そのとき、二人の盲人が主イエスのあとをついて行きました。主イエスの時代、目が見えない人がかなり多くいたようです。主イエスも大勢の病人を癒されましたが、盲人の癒しが一番多く出てきます。それは、当時の衛生状態が悪かったこと、目の病気にかかる人が多かったこと、イスラエルは乾燥しているため風が強いと砂ぼこりがすごいのですが、そのために目を悪くする人もいました。また、栄養失調で視力を失う人もいました。
彼らが主イエスのあとをついて行ったとき、彼らは大きな声で叫びながらついて行きました。主イエスが道を歩かれるときは、いつも弟子たちのほかにも大勢の人々がついて行ったので、ざわざわしていたので、彼らは何とか主イエスが自分たちのことに気がついてくれるようにと大きな声を出していたのです。「叫ぶ」と日本語に訳されていますが、ギリシャ語では「クラゾー」という動詞です。この言葉は普通の叫び声ではなく、かなり大きな声で叫ぶときに使われることばでした。ガリラヤ湖の向こう岸のガダラ地方で主イエスとであった悪霊につかれた男も大声で叫びました。また、主イエスご自身も十字架の上で最後に大きな声で叫ばれた後、息を引き取りました。二人の盲人は非常に大きな声で叫んでいました。彼らは必死だったのです。他に自分たちを助けてくれる人はいなかったので、主イエスだけが頼りだったからです。マタイの9章に出てくる人々は、みな、主イエスの奇跡の働きを受けましたが、彼らの共通点は、必死だったということです。だれも簡単にあきらめませんでした。中風で寝たきりの人は屋根からが下りて主イエスの前にでました。会堂責任者のヤイロも娘がほぼ希望がない状態になっていたのに、イエスのところにやって来ました。12年間長血の病気を患っていた女性は、家の外にでると誰からも毛嫌いされていたにもかかわらず、顔を隠して主イエスに後ろから近づき、主イエスの衣に触りました。私たちが主に何かを願い求めるときは、マタイ9章に出てくる人々のように、他のものを便りとしないで、ただ主イエスにだけ求めなければならないのです。
二人は何と叫び続けたのでしょうか。「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びました。「ダビデの子」というのはユダヤ人が旧約聖書に預言されていた救い主メシヤを呼ぶときに最もよく使われたタイトルです。ダビデはイスラエルの歴史に中で最も偉大な王様です。しかも、旧約聖書には、救い主はダビデの家系から生まれると預言されているのです。旧約聖書には最初の人間アダムとエバが神の命令に背いて罪を犯した直後から、私たちを罪の支配と罪の裁きから解放する救い主が与えられることが預言されました。そして救い主に関する預言はだんだんと細かい預言となり、アブラハムの時には、救い主はイスラエルの民を通して与えられること、ヤコブの時代にはユダ部族から与えられることが明らかにされました。そしてダビデ王の時代に預言者ナタンを通して、救い主がダビデの家系から生まれることが預言されたのです。預言者ナタンはダビデ王に向かって次のように言いました。「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」また、天使ガブリエルがマリヤに現れた時には「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」と言っています。ですから、この二人の盲人が「ダビデの子よ。」と叫んでいるのは、彼らは主イエスこと、約束の救い主メシヤであるという信仰告白をしているのです。
また、二人は「私たちをあわれんで下さい。」と叫びました。これは彼らの自分に対する姿勢を示しています。つまり、彼らは神の憐れみが必要だということに気づいていたのです。二人が「私たちを癒してください」とは言わず、「私たちを憐れんでください」と言っていることから、彼らはただ単に肉体的な必要を感じていただけでなく、自分たちの罪を赦してくださる神のあわれみが必要だと感じていました。彼らは、自分たちが、神の恵みを受ける資格がないことを知っていました。しかし、彼らの信仰は、神は彼らに対して憐れみを注いでくださる方であることを知っていたのです。詩篇145篇8-9節にはこう書かれています。「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。」二人は、主イエスこそ約束の救い主であり、救い主には罪を赦す権威も病気を癒す力もあることを知っていただけなく、自分たちが神の恵みを受ける資格のない罪人であることをも知っていたのです。しかし、神様は、そのような心を持っている人を受け入れ、喜ばれるのです。神様は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる方です。エルサレムの神殿に行ってお祈りをささげた取税人は、この二人の盲人と同じように、自分の生き方を振り返ってみて、自分が神様の恵みを受ける資格がないことをよく分かっていました。だから、彼はお祈りをするときに顔を天に向けようとせず、下を向いたまま祈りました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」この取税人は、神に受け入れられました。なぜなら彼は神の前にへりくだったからです。
(2)イエスのチャレンジ
主イエスの人とのかかわり方はとても興味深いものがあります。一人一人に対する接し方が違います。今日の場合は、二人が大きな声で叫びながら主イエスの後をついて来ているにもかかわらず、最初は無視しているような様子です。彼らは、主イエスがヤイロの家を出た後、主の後をついて来ていますが、28節を見ると「主は家に入られた」と書かれています。おそらく、この家は、主イエスがカペナウムを活動の拠点としておられたときに住んでおられたペテロの家でしょう。主は、この日、長い一日を過ごしておられました。説教をしたり、癒しの業をおこなったり、私たちとまったく同じ肉体を持っておられた主イエスは、どれほど疲れていたことでしょう。しかし、主イエスが家の中に入られると、ふたりの盲人も、後に続いてペテロの家の中に入って来ました。そして、二人は初めて主イエスの前に出ました。彼らはずいぶん長い間、叫びながらイエスの後をついて来ました。彼らは、主イエスがすぐに自分たちの求めに答えてくださらなくても、決して途中であきらめませんでした。私たち
みて、すぐに神様の答えが現れないと、「神様は自分の祈りを聞いてくださらない」と神に向かって不平不満を言います。しかし、主がいつも人々の祈りにただちに応えるとは限らないのです。主は、二人が、どれほど真剣に求めているのか、二人の信仰を試されたのでしょう。神様は私たちの信仰をも試されることがあります。私たちが本当に神だけを頼りにしているのか、「神様は必ず祈りに応えてくださる。」という信仰を持っているのか、私たちの信仰を試されることがあるのです。
それから、主は二人に言われました。「わたしにそんなことができると信じるのか。」この二人は、主イエスになら自分たちの目を開くことができると信じていたからこそ、主イエスにここまでついて来たはずです。目が見えない状態でここまでついて来るのは二人にとって本当に大変なことだったと思います。だから、この主イエスの質問は少し冷たい感じに聞こえます。主イエスはもちろん、二人の心をよく知っておられました。「ダビデの子よ」と叫ぶ彼らの信仰、また、「哀れんでください」と叫ぶ彼らの謙遜な心、主は全部分かっておられるのです。しかし、主イエスは、ここでもう一歩すすんだ信仰告白を二人にさせようとしておられるのです。一般的な主の力を信じる信仰ではなく、自分の生活の中にも主イエスが働くということを心から信じるのかどうかを試しておられるのです。「あなたは、私が、今日、他の人ではなく、あなたの目を癒すことができると信じますか?」と主は彼らに尋ねられました。すると二人は応えました。「そうです。主よ。」彼らは主イエスが自分たちの個人的に求めたことを行う力を持っていることを信じると告白しました。そして、イエスに向かって「主よ」と呼びかけることで、二人はイエスを旧約聖書が預言している救い主メシヤであることを信じる信仰を告白したのです。主イエスが癒しの業を行われるときには、体の癒しよりも罪の赦しによる救いを第一にされました。中風で寝たきりの人にも「あなたの罪は赦された」と宣言されましたが、12年の間長血の病気に苦しんでいた女性にも「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。主イエスは、二人の盲人に「主よ」と告白する信仰告白に導くことによって彼らを救いに導かれたのです。
(3)二人の盲人の癒しと救い
主が奇跡の業を行うのは人に見せるためではありません。自分に注目を集めるためではありません。主は、ただ、彼らの目に手を置いて「あなたがたの信仰のとおりになれ」とだけ言われました。主が「あなたがたの信仰のとおりに」と言われたことで分かるのは、この二人に対する主イエスの働きは、彼らが主イエスに対してどれほどの信仰を持っているかによって決まるということを教えています。主イエスが「あなたがたの信仰の通りに」と「信仰」という言葉を用いておられることからも分かるように、二人はただ目が開かれただけではありませんでした。彼らが主イエスを信頼したこと、主イエスだけに助けを求めたことから、主イエスは二人を肉体の回復とともに霊的な回復も与えてくださいました。リチャード・トレンチという人は信仰についてこのように述べています。「信仰は人間のからっぽさと神様の豊かさをつなぐ管のようなものです。信仰は神様の恵みの泉の中に降ろされたバケツのようなものです。そのバケツがなければ、人は救いの井戸からいのちの水をくみ上げることができません。井戸は深く、人間には自分で水をくみ上げることはできません。信仰は財布のようなものとも言えるでしょう。財布が人を豊かにするのではありませんが、財布の中に入れられた富によって人は豊かになるのです。」この場合、バケツの品質、バケツの大きさはあまり重要ではありません。大切なことは、バケツを下ろす泉が豊かであるということです。私たちの信仰のバケツがどんなに小さくても、泉の中におろせば、そこに神様の恵み、神様の豊かさが入るのです。それが私たちを豊かにするのです。二人の盲人は、そのイエスに信頼しました。信仰のバケツを下ろしたのです。そのとき神様の豊かさがその中に入ってきました。私たちも信仰のバケツをイエスの豊かさの中に下ろして、もっと大きな神の恵みを受け取りましょう。
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